Q&A を斬る



Q&A 4 日韓関係・植民地支配
 -5 植民地下の朝鮮は平和だったのか? を斬る

2016.11.22 関東大震災朝鮮人暴動に関する情報を追加。
2014.09.15 関東大震災朝鮮人暴動に関する情報を追加。
2014.08.03 Youtube「関東大震災朝鮮人暴動はデマではなく実話!朝鮮人テロリストの襲撃」を追加
2014年05月21日 保導連盟事件に関する記述を追加。


 引用元URL → http://fightforjustice.info/?page_id=2578( 魚拓 )

 このページは、webサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』が開 設された2013年08月01日時点で存在しなかったページです。

 いつ追加されたのか?は、サイト内に履歴が無いので分かりません。


 以下、青い色の文字がwebサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責 任』からの“引用”です。

 ―― すみません。 今回も長いです ――




 日本は日清戦争と日露戦争以降、とりわけ朝鮮植民地支配のなかで、
 民族運動への弾圧(甲午農民戦争、義兵戦争、三・一独立運動、間島虐殺、満州抗日戦争など)
 や関東大震災時の朝鮮人虐殺、アジア・太平洋戦争時の強制連行、日本軍「慰安婦」など、
 朝鮮人に対して幾多の人権蹂躙を行ないました。

 

 ■ 甲午農民戦争 ■

   wikipedia「甲午農民戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/甲午農民戦争 - 1.第一次蜂起

   > 1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。
   > これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国、西欧の列強が加わ り、
   > 次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。
   >
   > 閔氏政権の重税政策、両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行、
   > そして1876年の日朝修好条規(江華島条約)をはじめとした閔氏政権の開国政策により
   > 外国資本が進出してくる等、当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況であった。
   >
   《中略》
   >
   > 朝鮮の改革を巡っては、壬午事変や甲申政変のような政変があったが、
   > いずれも蜂起は失敗に終わった。
   > こうした中で政権を手にしていた閔氏は、自らの手で改革を行うことができずにいた[1]。
   > このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で
   > 農民の蜂起(民乱)が起きていた。
   > そのような中、1894年春に全羅道古阜郡で、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった
   > 崔時亨が武力蜂起し、甲午農民戦争に発展した。
   > 反乱軍は全?準という知将を得て5月には全州一帯を支配下に置いた。
   >
   《中略》
   >
   > これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請。
   > 天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告し、
   > 日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵し、
   > 漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。
   > この状況に慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成し締結したといわれる[2]
   > ( 但し和約を結んだとする一次資料は発見されていない )。
   > この和約で従来の地方政府が復活したが、同時に農民側のお目付け役「執綱所」が
   > 設けられ、全羅道に農民権力による自治が確立した。

 清と対峙しただけで、朝鮮半島の人を弾圧したわけではありませんね。


   wikipedia「甲午農民戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/甲午農民戦争 - 3 第二次蜂起

   > 全?準は日清両国が軍を派遣して間もない7月には既に第二次蜂起を起こそうとしていた。
   > しかし、平和的な解決を望む東学の上層部の説得に時間が掛かり、
   > 蜂起したのは10月に入ってからであった。
   > 今度は朝鮮の新政権と日本軍を相手にする反乱であった。
   >
   > 全?準らが第二次蜂起を起こしたときには、日清戦争は既に大勢を決していた。
   > 11月末に忠清道公州で農民軍と日本軍が衝突するが、近代的な訓練を受けた日本軍に
   > 農民軍はあえなく敗退する。
   > 農民軍は全羅道に逃げ帰り、全?準らは淳昌で再起の機会をうかがっていたが、
   > 1895年初頭に捕えられ、漢城(ソウル)で処刑された。
   > 井上馨日本公使は全?準の人格に共感し、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、
   > 朝鮮政府は井上が帰国している間に、処刑を執行した。

 こちらは反乱軍を鎮圧しただけ。


 ■ 義兵戦争 ■

   慶文堂 ひま人日記
   7-3-5 抗日義兵戦争の展開
   http://plaza.rakuten.co.jp/sagaenokeibun/2020/

   

   慶文堂 ひま人日記
   *5 抗日義兵戦争の展開〜私的考察
   http://plaza.rakuten.co.jp/sagaenokeibun/2022/
   > いよいよ日露戦争に入りました。 もっとも、韓国では『露日戦争』と表現するらしいですね。
   > どっちにしても韓国から見たら『外国』なのでどうでも良いような物ですが、
   > この表現からすると、現在の韓国にとっては日本よりもロシアの方がより
   > 身近に感じられるのでしょう。
   > ( 例えば我々日本人がアメリカとロシアを並べて表記する時には『米露』と表記するでしょう。
   >  それは身近に感じるアメリカの方を先に持ってくるからです )。
   >
   >
   > > 抗日義兵運動の開始
   >
   > ここでは、日露戦争の一方の当事者・ロシアに関しては一切書かれていません。
   > 出てくるのは、
   >
   > > 日帝の侵略が本格化し大韓帝国は大きな試練を受けた。
   > > 日帝の侵略に対する最も積極的な民族的抵抗は義兵戦争であった。
   > > 最初の抗日義兵は日本侵略者によって恣意的に行なわれた乙未事変と親日内閣・・
   > > いわゆる乙未義兵は衛正斥邪思想を持った儒生が主導し、
   > > 一般農民と東学農民軍の残存勢力が加担した。
   > > 彼らは(中略)親日官吏と日本人を処断した。
   >
   > これでもか、これでもか!というくらいに『日帝』『侵略』などの文字が出てきます。
   > さらに『親日官吏と日本人を処断』した、と。
   > 『処断』とは『理非・曲直などをさばいてきめること』であり、
   > 日本で言えば『天誅』みたいなもので、『正義は我に有り』という所でしょうか。
   > とことん『日本憎し!』で貫かれています。
   >
   >
   > > 義兵抗戦の拡大
   >
   > > 露日戦争を契機に、日帝は侵略を積極化するとともに
   > > 一方的に乙巳条約の締結を発表した。
   > > これに対して社会の各界各層では日帝の侵略を球団し、条約の廃棄を主張する運動が
   > > 至るところで激しく起こった。
   >
   > ここに出てくる『乙巳条約』とは、日韓協約のうち1905(明治38)年に締結された条約で、
   > 日露戦争に勝利した日本が、アメリカ、イギリス、ロシアなど列国の承認を取り付けて
   > 韓国を事実上属国化した全文5条からなる ( 大韓側では乙巳【ウルサ】保護条約と呼ばれる )
   > ものです。
   > 韓国の歴史教科書だけを見ると、
   > 『 日本は強引に乙巳条約を押しつけて、韓国から外交を剥奪した 』
   > という印象を受けます。従って、またまた『日帝が悪い』と。
   > 果たして本当にそうだったのでしょうか?
   >
   > この条約について、日本側から見た文章があったので引用させていただきます。
   >
   >  (引用開始) Do TORON様より 
   >
   >  第二次日韓協約・乙巳条約を締結するまでの過程を見よう
   >  きっかけは、高宗の密使派遣外交と、度重なる発覚
   >
   >  1905年3月26日、韓国皇帝が出した密書が、
   >  上海のデシノ少将の元に到着したことが発覚した。
   >  この密書は上海滞在中のパブロフを通じて、ロシア皇帝に訴えるもので、
   >
   >    日露開戦一カ年を過ぎ、
   >    ・・・・日本の韓国に対する圧政の度、日に加わり、兵権より財政に至るまで、
   >    ことごとく之を掌握左右し、・・・・韓国の主権を横奪し、・・・・憂苦措く能わず、
   >    故を以て露の恩眷によりて日兵を駆逐するか、或いは策を以て
   >    日本の暴戻を峻拒するの手段につき稟議を露国大皇帝陛下に訴うることを切望す
   >
   >  とのことが記してあった。
   >
   >  その事につき林権助韓国公使が皇帝に問いつめたところ、
   >  皇帝はそのような密使を派遣したことはないと否定し、
   >  そのような書類を偽造した者の処分を検討すると言った。
   >
   >  しかし、2月8日には、皇帝が密書を出したと思われる形跡が発覚しており、
   >  この時もその事実を皇帝は否定している。
   >
   >  この密書の詳細が発見される直前、林公使は出張で帰国し、
   >  桂首相に、スチーブンス、目賀田顧問等の苦情を訴え、保護国化の必要性を主張してきた。
   >  この密書の発覚は、まだ日露戦争の最中であり、
   >  この事件だけでも韓国に宣戦布告し、植民地化する正当な理由となる。
   >
   >  この事実を受け、4月8日、韓国に対し保護権を確立することを閣議決定した。
   >
   >  その上で、第二次日英同盟、日露講和会議、桂・タフト協覚書等の交渉を通じて、
   >  列強に韓国の保護国化を認めさせた。
   >  ところが、この動きを知った韓国皇帝は、またまた密使派遣外交に出た。
   >
   >  7月、韓国皇帝は、李承晩をアメリカに、フランス人マーテルをロシア、フランスに
   >  10月、韓国皇帝は、ハルバートをアメリカ、二人の韓国人をイギリスに派遣
   >
   >  これらの密使派遣は、韓国の言い分としては自衛権の発動となるが、
   >  明らかに、第一次日韓協約の違反である。
   >  しかも、その事実を追求すると、韓国皇帝は、悉くそれらは偽造だと否定したのである。
   >
   >
   >  朝鮮の直接統治は、本来はしたくなかった
   >
   >  当時は台湾での反日活動が、ようやく終結したばかりであった。
   >  台湾の反日活動は激しく、長期に亘った。
   >  その処理に手を焼いた日本では、フランスへ売却を真剣に検討したくらいである。
   >
   >  従って、伊藤博文や当時の大蔵大臣で、後に伊藤の後任として第二代の韓国統監になった
   >  曽禰荒助は、韓国の直接統治には反対であった。
   >
   >  理由は、日露戦争で多額の費用を使ったので、韓国統治につぎ込む金がない、、、という
   >  ことであった。
   >
   >  11月、伊藤博文が特使として韓国に派遣され、軍隊の圧力を背景に、
   >  第二次日韓協約を締結した。 韓国は、外交権を奪われ、日本の保護国となった。
   >  この協約の締結を迫ったかは、この密使事件の存在により明確になる。
   >
   >
   >  協約を調印するまでの過程を見よう
   >  これより先の10月27日の閣議では具体的な「方法順序」として
   >
   >  1,条約により韓国の外交関係を日本が担当する
   >  2,条約締結後に、韓国と諸外国との旧来の条約の維持を宣言する。
   >  3,11月初旬実行する
   >  4,条約締結の全権を林権助・駐韓公使に委任
   >  5,勅使を派遣し韓国皇帝に親書を贈る
   >  6,長谷川韓国駐箚司令官に軍事的援助をするように命令する
   >  7,輸送中の日本軍隊のソウル集結
   >  8,条約締結が不可能な場合、韓国へは保護権の確立の通告、列強には宣言を発する
   >
   >  の8項目を決定、条約案も確認し天皇の裁可を得た。
   >  これらは、3の11月初旬が中旬になったこと、条約の文言が修正された以外は、
   >  ほぼそのまま実現する。
   >
   >
   >  11月10日、伊藤ほか随行員の文武官は王宮の慶雲宮に参内。
   >  高宗皇帝に謁見し、天皇の親書を手渡した。
   >  親書には
   >  「 今や幸に平和は克復せられたりと雖も、之を恒久に維持し、
   >   東亜将来の滋端を杜絶せんが為には、両帝国間の結合を一層鞏固ならしめんこと
   >   極めて緊要なりとす 」
   >  という天皇の日韓結合の真意が何を意味するか、皇帝もおよそのことを想像することが
   >  できただろう。
   >
   >
   >  11月15日、皇帝に内謁見した伊藤は、韓国の外交権行使を、韓国政府から委任を
   >  受けた日本政府が行うことを提案した。
   >  いわゆる保護国関係である。
   >  これに対して、皇帝は
   >  「 対外関係の一事、敢えて之を絶対に拒否するに非ずと雖も、要は唯其の形式を存し、
   >   内容の如きに至りては如何に協定せらるるにせよ、断じて異議なき所なり」、、、と答えた。
   >
   >  しかし、伊藤は
   >  「 本来は帝国政府が種々考慮を重ね、最早、寸毫も変通の余地なき確定案にして、、、、
   >   断じて動かす能わざる帝国政府の確定議 」
   >  であると強圧的に対応し、さらに、外部大臣(外相 朴斉純)に対して、
   >  林権助・駐韓公使の提案にもとづき協議し、協約調印に至るよう
   >  勅命を下すことを要請した
   >
   >  皇帝もやむなく
   >  「 外部大臣へは交渉妥協の途を勉むべき旨を達すべし 」
   >  と答えざるをえなかった。
   >
   >  11月16日、林公使は朴斉純外相を招き、協約案を手交した。
   >  公式交渉の開始である。
   >  伊藤博文が脅迫的な言辞を交えながら説得をおこなった。
   >  伊藤に対する大臣達の対応は様々である。
   >
   >  韓圭咼参政は、たとえ形式上なりとも韓国の独立を保全したいと希望し、
   >  「 韓国現下の状況は気息奄々、瀕死に等し、唯だ纔か(わずか)に一縷の余命を存せるは、
   >   一に是れ外交関係を親ら(みずから)するに在るなり。
   >   而して其の外交をすら貴国に委任せんか、全く命脈断絶するの悲境に沈むべし 」
   >  と述べた。
   >  前日の伊藤に対する皇帝の要請と同じ趣旨である。
   >
   >  11月17日午前11時、林は日本公使館に大臣全員を招集し、協約案につき
   >  韓国側の意見を聞いた。
   >  誰も賛否を明確に表さず、
   >  「 一同は事態の詳細と各自の意見を陛下に奏上して聖断を仰ぎたる上、
   >   確答を本官に与えん 」
   >  ということになったと林は報告している。
   >  しかし、皇帝の御前会議に持ち込んで、一決しようという計画は
   >  林と伊藤との打ち合わせの結果であった。
   >
   >  (中略)
   >
   >  伊藤も調印を急いでいた。
   >  協商が難航すれば内閣総辞職して交渉相手を失うとか、
   >  韓国政府の一部には日本のなすがままに放任して、国際的「公論」に訴えるとよいという
   >  意見があったから、「事の遷延を下得策」と見ていた。
   >
   >  韓国大臣達は、林公使や公使館員達に付き添われて参内し、
   >  午後4時頃から王宮の慶運宮の漱玉軒で御前会議が開かれた。
   >  しかし、林の予想通り、結論には至らず継続審議になった。
   >
   >  中略
   >
   >  午後8時頃、伊藤は宮中に現れ、皇帝に内謁見を求めた。
   >  病中の皇帝はこれを断り、李載克宮内相に
   >  「 朕が政府大臣をして商議妥協を遂げしめんとす。
   >   卿(伊藤)、願わくは其の間に立ち周旋、善く妥協の道を講ぜんことを 」
   >  という勅答を与えた。
   >
   >  伊藤は大臣1人1人に賛否を尋問した。
   >  韓圭咼参政と閔泳綺度支相は明確に反対を表明した。
   >  朴斉純外相も 「断然不同意」 と拒否したが、言葉尻をとらえた伊藤は
   >  「反対とは見倣さず」 と判定した
   >  結局、李完用、李址鎔、権重鎮の3人は参政
   >  朴斉純、李夏栄、李根沢の3人は、伊藤により反対ではないとされた。
   >
   >  伊藤は、これをもって
   >  「 普通採択の常軌として多数決により 」
   >  閣議決定は協約案賛成として、皇帝の裁可を奏請するよう促した。
   >
   >  韓圭咼参政に皇帝の裁可を求めるように促し、拒否するならば、
   >  「 予は我が天皇陛下の使命を奉じて此の任にあたる。
   >   諸君に愚弄せられて黙するものにあらず 」
   >  と、恫喝した。
   >  韓圭咼参政は、すすり泣きながら
   >  「 陛下の聖旨に背き、又、閣僚と意見を異にするに至る。
   >   宜しく進退を決し、謹んで大罪を待つの外なかるべし 」
   >  と語り、やがて 「会議室を起って別室に退」 いた。
   >
   >
   >  午後11時半、林公使と朴斉純外相とが記名し、
   >  外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印を捺印した。
   >  18日、午前1時半頃のことである
   >
   >
   >  協約案が出来て修正され締結するまでの過程
   >  上奏前に、協約案に修正が施された
   >
   >  ○ 李夏栄法相から、第一条の字句の修正
   >
   >  ○ 権重顕農商工相から、第五条として「皇帝の安寧と尊厳」の保証事項の追加
   >
   >  ○ 李完用学相から第三条の統監の職掌に「内政に干渉せず」の字句挿入の意見が出され た。
   >
   >  伊藤は、第一、第五条については修正意見をそのまま受け入れた。
   >  しかし、第三条の統監職掌に内政不干渉を明記する要求には躊躇し、
   >  「 統監は専ら外交に関する事項を処理するため京城に駐在し 」
   >  の文言を加えることで合意した。
   >  他に、韓国側から協約に時限を付す意見が出されたが、林が拒否した。
   >
   >  修正後の協約案を内奏したところ、皇帝は、
   >  「 韓国が富強を致し、其の独立を維持するに足るの実力を養うるに至らば、
   >   此の約案を撤回する旨の字句を挿入せんこと 」、、、、を求めた。
   >  皇帝は、協約に期限を付し、外交権の回復をはかったものと思われる。
   >
   >  伊藤は、それを逆手に取り、協約前文に 「韓国の富強の実を認むるに至る迄」 を挿入し、
   >  修正要求を容れたことにより、皇帝不承認の理由を潰していく。
   >
   >  28日、桂太郎兼任外相に送った報告で林は、
   >  「 最後に陛下の直接の希望を容れて、新たに一条を加えたり。
   >   此の事実に拠るも、諸条約は当事者相互の意思の一致に出でたるや明なり 」
   >  と合意に達したことを強調している。
   >
   >  外交権行使の日韓保護条約が国際的に承認されるかどうかは、
   >  日本政府の通告に対して各国が文書で明示的に回答するのではなく、
   >  保護国とされた韓国に派遣している自国外交官(公使館)の廃止で黙示的に示す。
   >
   >  日本政府が不安視する中で、ベルギー、イギリス、清国、アメリカ、ドイツ、フランス公使が
   >  年末までに、それぞれ帰国の途についた。
   >  帝国主義列強は、日本の韓国「乙種真正保護国」化を承認したのである。
   >
   >
   >  協約の調印について、韓国側の大臣は強制されたと思ったのか?
   >
   >  調印から一ヶ月後の12月15日、協約に賛成した「五賊」として韓国国民の非難を浴びてい
   >  義政府大臣署理・李完用、参政大臣・朴斉純、農商工部大臣・権重鎮、軍部大臣・李根沢、
   >  内部大臣・李址鎔の五人の大臣が、皇帝に上疏して調印時の自己の発言を弁明した。
   >
   >  韓圭咼参政と閔泳綺度支相以外の6人の発言は「可」ではなく、
   >  それぞれが問題点を指摘したが、伊藤により「可の辺」と判定されたという。
   >
   >  彼らには、伊藤に騙されたという意識はあっても、脅迫されたという認識はない。
   >  五大臣の上疏に対する皇帝の回答は、誤りとして罪を問うのではなく、
   >  彼らを慰撫するにとどまった。
   >
   >  海野福寿 著/韓国併合 岩波書店
   >  伊藤博文と韓国併合 青木書店より 改編
   >  2005年03月07日製作
   >  2005年12月12日改編
   >
   >  (引用終わり)
   >
   > 時の韓国皇帝・高宗の密書による勝手な隠密外交などは無視し、
   > あくまでも『日帝が悪い』に終始しています。
   > だからこそ、
   >
   > > 社会の各界各層では日帝の侵略を糾弾し、
   > > 条約の廃棄を主張する運動が至るところで激しく起こった。
   >
   > のである、と説明しています。
   >
   > では何故、日本が韓国の外交権を剥奪する必要があったのか?
   > そもそも何故日本が朝鮮半島に介入しなければならなかったのか?
   > 日本が朝鮮半島に介入した結果、日本自身もその後多大な負担を強いられ、
   > なおかつ朝鮮半島の反日思想の人たちからも憎まれました。
   > その結果がここで取り上げられている『抗日抗日義兵戦争』になるわけです。
   >
   > やっぱりもっと時代を溯って見る必要があるようです。

 低俗な逆恨みです。


 ■ 三・一独立運動 ■

   2010/7/6 かつて日本は美しかった
   三・一独立運動の隠された事実
   http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/25817795.html
   > 1919年(大正8年)朝鮮半島。大韓帝国初代皇帝高宗の死がさまざまな憶測を呼び、
   > 前年の李光洙(イ・グァンス)らによる二・八独立宣言の流れを受けて
   > 民族代表33人による独立運動が展開されました。
   > 独立万歳運動や万歳事件ともいいます。
   > 注意したいのは独立を叫びながらも日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている点です。
   >
   > この暴動について日本の言論空間が隠し続けていることが多々あります。
   > ひとつは日本人の憲兵6人と警察官2名が殺害されたことで
   > 花樹里警察官駐在所で川端豊太郎巡査が石と棍棒で殺害され、耳と鼻をそぎ落とされ、
   > 陰具を切断した惨殺事件があったのに
   > 裁判は「報復」的なことは一切しなかったことがあげられます。
   > 放火などによる役場全壊19、一部破壊29、
   > 警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遺所・同駐在所については全壊16、一部破壊29、
   > 郵便局の全壊2、一部破壊9、となっており、運動というよりも暴動です。
   > しかし、裁判では死刑も無期懲役もいません。
   > 懲役15年以上の実刑になったものもいません。
   > 朝鮮固有の拷問も行っておらず、証拠主義に徹して多くの被疑者が無罪放免となっています。
   >
   > このとき朝鮮半島に住んでいた私の祖父はこの運動を以下のように記しています。
   > 「 この運動は幼稚なもので 『或る呪文を唱えたえら弾が当たらない』 と教えて
   >  無知な大衆を騙してマンセー(万歳)、マンセー、と騒がした。
   >  初めのうちは殺すまでの事もなかろうと空砲で威嚇したものだから
   >  『それ見ろ弾はあたらんぞ』 と瞬く間に騒ぎが大きくなったので、
   >  やむを得ず先頭の5,6人を射殺したら蜘蛛の子を散らす様に逃げて騒ぎが収まったそうだ 」
   >
   > 運動の指導者らは天道教、仏教、キリスト教の代表者ですから
   > 宗教的なもので無知な大衆が扇動されたということでしょう。
   >
   > この運動の33の代表者のひとり朴煕道は後に近代化を目指す上で
   > 朝鮮語の全廃を総督府に申し入れています。
   > 前述の李光洙は上海に亡命し、大韓民国臨時政府樹立に加わり
   > 独立新聞の編集長に就任しています。
   > 帰国後、逮捕されますが起訴されず釈放されています。
   > その後、東亜日報に就職しています。
   > 彼は朝鮮近代文学の父と呼ばれており、
   > 「 朝鮮人を単一なものと考えるのが根本的な誤り 」
   > と延べ、
   > 「 天皇の赤子として日本の国民と考えるべきである 」
   > と述べています。
   > また彼は「創氏改名」を強く推奨し、自身は「香山光郎」としました。
   > 朝鮮では日韓合邦した頃は民族意識というのはもともと希薄で
   > 合邦後に日本語である「民族」が吹き込まれましたが、結果的には帝国主義の時代は
   > 国民主義的なもののほうが台頭しやすかったといえます。
   > 皇国民となったほうが圧倒的にステータスがあがるからです。
   >
   > 三・一独立宣言を起草した崔南善(チェ・ナムソン)は逮捕され2年6ヶ月の懲役刑をうけました。
   > 仮出所後は朝鮮銀行総裁・美濃部俊吉の後援を得て、雑誌「東明」を刊行し、
   > 1924年(大正13年)は「時代日報」の主幹兼社長になります。
   > 朝鮮人の文化向上と実力培養は独立に優先する、という論陣を張ります。
   > 後に総督府の朝鮮史編集委員、中枢院にも選ばれ、
   > 昭和12年(1937年)に満州建国大学教授に就任しました。
   > 彼は大東亜戦争を
   > 「 世界改造の重大な機会であると同時に人類の『世界』を現出させる機縁 」
   > 「 英米の桎梏(しっこく)に無く、東亜十数億大衆の祈願であり、
   >  真に万邦共栄の世界秩序を確立する、アジアの解放戦争 」
   > と唱えています。
   >
   >
   > 参考文献
   > 「歴史を捏造する韓国」中川八洋著
   > 「日本の植民地の真実」黄文雄著
   > 参考サイト
   > WikiPedia「三・一独立運動」


   2010-08-24 No!自虐史観
   【反論】三・一独立運動の真実
   http://ameblo.jp/hironk2005/entry-10627540852.html
   > 拙稿で書きました様に、左翼は
   >
   > (1) 日本は、「3・1独立運動」で多くの朝鮮人を殺したじゃないか!
   >
   > と言うかもしれませんが、反論させて頂きます。
   >
   >
   > ■ (経過:或る程度の反論も含まれています)
   >
   > 1931年米ウィルソン大統領の「民族自決宣言」を耳にした朝鮮人留学生は、
   > 2月8日に東京に集まり朝鮮の独立要求書を出そうとした。
   > この動きは直ぐに朝鮮に伝播し、丁度高宗の死去を悼むパコダ公園での集会に合わせて
   > 独立宣言書が読み上げられた。
   > 群衆はデモ行進に移り、数万の激した暴徒は電車打ちこわし等の破壊活動に移行し、
   > 翌日も続くと共に、地方にも広まった。
   >
   > 運動は益々激化して半島全体に広がり、面事務所(村役場)、憲兵事務所、
   > 親日派の地主等更には警察署襲撃に留まらず、放火や警官虐殺迄に及んだ。
   > 事態を重視した総督府は、警察に加え軍隊も投入して徹底的に治安維持に当たり
   > その過程に於いて双方に多大な犠牲者が出た事が真相である。
   >
   > 朝鮮側の犠牲者等は、
   >
   >               参加者    死者     負傷者
   > 独立運動の血史    203万   7509    15961
   > 朝鮮総督府       106万    561     1567
   >
   > と、各機関により大幅に異なる。
   > 日本側の数値は各村役場毎に集計されたものであるのに対して、
   > 朝鮮側の数値はあの上海の反日組織がまとめたものである。
   >
   > この裁判の結果は驚くべきもので、内乱罪に匹敵するものであるにも拘わらず、
   > 主犯8人が懲役3年で、有罪はわずか38人に過ぎず、死刑は皆無であった。
   > 斉藤総督の融和策による結果である。
   >
   > 総督府は事件後反省し、武断統治を改めて、憲兵警察制度を廃止し、
   > 集会、言論、出版に一定の自由を認める文治統治へと方向転換してから、
   > この様な事で朝鮮人を1人も殺していない。
   >
   >
   > ■ (反論)
   >
   > ・ 先ず韓国の評論家、作家である金完燮(キムワンソプ)氏も研究の結果、
   >  独立運動ではなく暴動であったと言っている。
   >
   > ・ この事件を批判する者達は、ただ「現在の価値観」で過去の出来事を批判している事である。
   >  そりゃ今の価値観で言えばあっては成らない事であろうが、
   >  ならば帝国主義時代の反乱を収めた典型的な一例を上げよう。
   >  日本とイギリスでは一体どちらが残虐か。
   >
   >  昨年書店で立ち読みし、記憶していた内容を記したい。
   >  19世紀半ばに起ったインドでのセポイ(シパーヒー)の乱では、
   >  イギリスは反乱を収めた後の処理で多くの反乱軍の兵士を大砲の前に立たせ、
   >  木製の弾丸で撃ち殺した(絵画参照)。
   >  また、この乱での犠牲者は鎮圧による者の他、食糧生産不足の餓死等で
   >  インド中で人口の1/3が減っている。
   >  しかし、インド人がこの事で今もイギリスに謝罪を要求しているとは聞いていない。
   >
   > ・ 過去の犬HKのスペシャル番組では、パコダ公園で白いチマチョゴリを着た
   >  多くの朝鮮人女性が泣き叫んでおり、その横でサーベルを持った日本の官憲が
   >  弾圧している様な印象の写真か絵画を流していた記憶がある。
   >
   >  犬HKは如何にも日本の官憲は無抵抗の朝鮮人に酷い事をしたと言いたそうであるが、
   >  実際には無抵抗の朝鮮人を弾圧したのでは無く、日本側も多くの被害を被っていると言う
   >  事実である。
   >
   >  日本側の被害(Wikiより)
   >
   >  > 襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、
   >  > 物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、
   >  > その他諸々27であったといわれる。
   >
   《以下略》

 暴動が鎮圧されただけです。


 ■ 間島虐殺 ■

   wikipedia「間島事件」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/間島事件
   > 背景
   >
   > 1919年の三・一独立運動を受けて間島に居住あるいは亡命してきた元義兵などの朝鮮人が
   > 日本からの独立運動を起こして武力闘争の準備を進め(独立軍)、日中の国境問題も絡んで
   > 緊張を増していた(間島問題)。
   > 1920年3月には赤軍と協力して尼港の駐留日本軍を殲滅し
   > 在留邦人を皆殺しにすることに成功していた(尼港事件)。
   >
   >
   > 第一次琿春事件
   >
   > 1920年9月12日午前5時頃、中国人馬賊約300人は、琿春市街を襲い掠奪し、
   > 市街の目抜きに放火し、40戸余りを焼却した。
   > 当時市内には相当数の中国軍部隊がいたが、兵士は萎縮し屋内に退避、
   > 日本領事館に避難する者もいた。 馬賊が引き上げるや、一部はともに掠奪に加わった。
   > その後、王西海が率いる馬賊が再び襲ってくるとの風説が広まり、
   > 16日から中国人や朝鮮人の中には避難する者も出始めたため、
   > 慶源守備隊から適時連絡兵を派遣して警備することとなった。
   > その後、それら馬賊は奥地へ引き上げたとの情報が入り、人心は小康した。
   >
   >
   > 第二次琿春事件
   >
   > 事件前の9月30日、約50人の馬賊は、琿春県大荒溝の中国軍の工兵営(定員34人)を襲い、
   > 大部分を拉致し、武器弾薬の全てを奪取している。
   >
   > 10月1日午後4時、馬賊頭目の鎮東が青溝子に到着したとの情報が入り、
   > 午後6時に中国工兵60人が出て東門辺りの警備を始めた。
   > 日本人は自警団を組むことなく、領事館への避難は随意とし、
   > その安全は警部1人、日本人警察官10人に委ねられた。
   > 領事は同夜に急使を発し、午前12時に慶源守備隊に到着、守備隊は午前3時50分に
   > 特務曹長以下10人を琿春に向けて派遣した。
   >
   > 10月2日午前4時、琿春に400人の馬賊が来襲、中国製37mm軽砲3門を
   > 付近の125高地から適宜発射しつつ、先ず市街西端にある日本領事館付近の中国兵を撃退、
   > 100人程が喚声を上げて領事館の各門に殺到、新型手榴弾を投げ込みつつ小銃を発砲した。
   > 領事館の武装人員は10余人であり、衆寡敵せず、馬賊は領事館に放火、
   > 手榴弾を投げ込み、一時間後にラッパを吹きながら居留地方面の中国人街に向かった。
   > 居留地では掠奪をつくし、一部の家屋を焼却した。
   > 慶源守備隊の到着は遅れ、馬賊は日本人1人、中国人・朝鮮人数人を拉致して
   > 午前8時頃ラッパを吹きながら来た方向と同じ方角に帰っていき、
   > 中国軍の一部は追撃したが、若干の損害を与えたのみであった。
   >
   > この襲撃により領事館警察署長、朝鮮人巡査、在郷軍人の3人は戦闘により、
   > その他男性6人、女性2人、子供2人の計13人が殺害され、重傷11人(うち1人後に死亡)、
   > 軽傷20余人を出した。 馬賊側は30余人の遺棄死体を残した。[1]
   > 被害者はほとんど日本人であり、朝鮮人は3人、中国人は1人に過ぎなかった。
   > 在留邦人は女性と子供の全て、男性は三分の一を慶源に引き上げ、
   > 中国人・朝鮮人も田舎へ避難する者が多く、市街は閑散とした。


   満州国の治安】もひとつ間島地区の例
   http://www.asyura2.com/0601/asia4/msg/538.html
   > ■□□□□□□□□□□(引用開始)□□□□□□□□□□□□□■
   >
   > こうして間島における惨劇が頻発した。たとえば、1920年に起きた「間島虐殺」である。
   >
   > 1919年の三・一運動の前後には、満洲と沿海州地方では30余の武装抗日闘争団体が
   > 組織されていた。
   > こうした団体の構成員は、キリスト教・儒教・大 教などの宗教を信奉する場合が多かった。
   > そして満洲と沿海州を夫余や高句麗の故地と認識して、自分たちが国権回復と民族解放の
   > 基地を建設するのだという自負心に満ちていた。
   > それゆえに、この地域の同胞社会が、国権喪失前からすでに主権在民の原理に基づいて
   > 共和主義の自治政府組織をもつようになったのは、至極当然のことだった。
   > このようにして、満洲と沿海州地域で養成された独立軍は、三・一運動を契機に
   > 熾烈な独立戦争を展開した。
   > 独立戦争の究極的目標は、日本軍を打ち払い、国内に進攻して
   > 民主的民族国家を建設することだった。
   > [鄭在貞氏『新しい韓国近現代史』桐書房一九九三年.一二八〜一二九頁]
   > http://members.jcom.home.ne.jp/goloh/pkman.htm
   >
   >
   > 洪範図が率いる大韓独立軍は、1920年初めには崔振東の軍および安武の軍とが連合して
   > 日本軍を撃ち、一部が黄海道地方まで浸透した。
   > 越境して追撃する日本軍と戦い、鳳 洞(琿春県)の戦闘(1920・6)では
   > 日本軍一個大隊に集中砲火を浴びせて戦果をあげた。
   > 日本軍は劣勢を盛り返そうと、満洲軍閥張作霖に圧力を加え、合同で独立軍討伐を試みた。
   > さらに間島侵略の口実を設けるために、琿春事件(1920・10)をでっちあげる一方、
   > 2万5000余名の兵力を入れ、間島一帯の独立軍部隊および非武装の独立運動家たちを
   > 探しだし壊滅しようとした。
   > この情報を入手した独立軍部隊は、深山密林の有利な地域に移動しながら
   > 日本軍と交戦を繰り返した。
   >
   > 北路軍政署・大韓独立軍・国民会軍・義軍府・光復軍(合計2100余名)は、
   > 1920年10月青山里(吉林省和竜県)の戦闘で五千余名の日本軍(東支隊)と
   > 一週間10余回の攻防戦を交わし、圧勝した。
   > こういう独立戦争を戦った朝鮮人の部隊は常にここ間島の深山密林を利用した
   > 効率的な遊撃作戦を行ない、また間島朝鮮人大衆の献身的な協力援助がこれを支えた。
   > http://members.jcom.home.ne.jp/goloh/pkman.htm
   > ■□□□□□□□□□□(引用終了)□□□□□□□□□□□□□■
   >
   > ま、戦果?が話半分にしても、ドンパチやってたことは間違いないでしょうな
   >
   > 次は別方面にしますかな。

 あれ? 日本人が殺された話じゃないか ・・・ と思いきや

   柴野貞夫時事問題研究会
   《間島大討伐》は、民族抹殺を狙った極悪な殺人犯罪
   http://www.shibano-jijiken.com/SEKAI O MIRU SEKAI NO SHINBUN 197.html

   > (朝鮮民主主義人民共和国 労働新聞 2009年11月15日付・6面)
   > http://www.kcna.co.jp/today-rodong/rodong.htm
   >
   > 《間島大討伐》は、民族抹殺を狙った極悪な殺人犯罪
   >
   > 1920年代、間島(カンド)地方であった日帝(日本帝国主義)の朝鮮人大虐殺蛮行を、
   > わが人民は、今日も鮮明に記憶している。
   >
   > 日帝の《間島大討伐》(《庚申(訳注―こうしん・かのえさる)年大討伐》)は、
   > 朝鮮民族を抹殺する為の残忍非道な人間殺戮戦だった。(訳注@、文末表記のサイト参)
   >
   > 朝鮮を強占した日帝は、朝鮮国内だけではなく、間島地方でも朝鮮人民に対する弾圧と虐殺 を、
   > 狂った様に繰り広げた。
   > 当時間島地方には、多くの朝鮮人が住んでいたが、彼らの反日意識は極めて高かった。
   > これに怖がる日帝は、この一帯に大規模武力を突きつけ反日運動を容赦なく踏みつけてしま い、
   > 朝鮮人たちを大量虐殺する謀略を仕立てた。
   > これに従い、日帝は《琿春(フンチュン)事件》と言うものを捏造した。
   >
   > 1920年10月ある日、(日帝の)仲間の《馬賊団》の連中らが、
   > 当時日本領事館があった琿春(フンチュン)を《襲撃》して、騒乱を起こす事件が発生した。
   > 挙句の果てに、この《襲撃》事件を朝鮮独立軍部隊の仕業だと、偽りのうわさを触れ回った。
   > それは捏造劇だった。
   > その時琿春を《襲撃》した《馬賊団》と言うものは、日帝に買収された烏合の衆達だった。
   > 日帝は彼らを押したて琿春に対する《襲撃》事件を演出したのだ。
   >
   > 日帝は、《琿春事件》を掲げ、《間島在留日本人の生命、財産を保護》すると言う美名の下、
   > 間島地方に対する《大討伐作戦》を開始した。
   > 日帝はラナム駐屯第19師団の一個連隊兵力3000名と咸鏡南道(ハムギョンナムド)の警察隊、
   > シベリア出征軍、満鉄守備隊など膨大な武力を琿春、ワンチョン、ファリョン一帯につぎ込んだ。
   > 彼らの攻撃目標はそのどんな軍事施設や武装勢力でもない、無垢の朝鮮人達だった。
   >
   > 日帝の《間島大討伐》は、到底形容しがたい、残忍この上なく敢行された。
   >
   > 東満(州)のいろんな県に忍び込んだ日帝殺人鬼たちは、一人残らず殺して全てに火をつけ、
   > 全て奪いとる《三光作戦》
   > ( 訳注―その後も、中国大陸各地で、日本帝国主義軍隊が、中国民衆に対して実行した
   >  おぞましい作戦である。)
   > を宣布し、焦土化作戦を繰り広げた。
   >
   > 日帝殺人鬼たちは、朝鮮人達が住む所であればその何処にでも飛びかかり、
   > 老若男女を選ばず、撃ち殺し、殴り殺し、刺し殺し、焼き殺した。
   > 生きた人の目玉を抜き取ったり、皮膚を剥ぎ四肢を裂いて殺すこともしたし、
   > 数十名ごとに生き埋めする事もした。
   > さらに、人々の手足をぎゅうぎゅうに縛り輪切りにして殺したし、
   > 子供たちを父母の胸から奪い取り、燃える家に投げ入れたし、鼻を串刺しにしたり
   > 腹を割いて殺すなど、獣も顔を赤らめる残忍な方法で、朝鮮人達を次から次へ虐殺した。
   >
   > 延吉(ヨンギル)県に手を出した日帝殺人鬼達は、70戸の朝鮮人の家屋に火を付け、
   > 部落住民300名中255名を虐殺した。
   > 日帝殺人鬼達は、延吉県に居たチョン・ギソンを逮捕し、彼の顔の皮を剥ぎ、
   > 続いてソ・インファンと彼の家族2名、そしてマ・ドンファの家族5名の皮膚を剥いだ後、
   > 火の中に投げ入れる野獣的蛮行を強行した。
   >
   > 日帝は、ファリョン県イドクでも朝鮮人家屋600余戸と、
   > チョンサンリ(青山里)の住民家屋1000余戸に火を付けながら、
   > そこの朝鮮人達を全て殺害したのであり、もの心付かない子供達まで銃で射殺し山に埋めた。
   >
   > 当時、日帝の殺人蛮行の惨状を、現場で目撃した一人の米国人は、じぶんの文で
   > 《 老若男女を選ばず家から引き出し、全てを銃殺し、未だ死なない人々を
   >  火の中に放り込み、焼死させた。・・火が燃えた灰の山には、死体が混ざっていた。
   >  灰の山から死体を一つ取り出して見たら、切られた手と足が散らばっていたので、
   >  私はそれらを一箇所に集めておき、写真を撮った。
   >  どんなに興奮したのか、手が震え写真を4度も取り直した。》
   > と書いた。
   >
   > また、一人の外国人は、日帝による歯が震える朝鮮人虐殺蛮行に対し、
   > 自国の執権者に送った手紙で
   > 《 日本官吏と兵士たちの行動は、法なき野蛮人達と違いがない。
   >  ・・・ 一般の婦人たちと女学生らは無論、10代の幼い少女達まで掴まえて、
   >  侮辱を加えているが、何と恥辱で嘆かわしい事なので、言わないこともあるのだが、
   >  ・・・日本人のこんな仕打ちは、極めて野蛮的であり、残酷で、
   >  いささかの道理も無い者達の行為だ。》
   > と書いた。
   >
   > 世界的に公認された 《集団殺害罪の防止また処罰に関する条約》 には、
   > 《 ・・・集団殺害が平時に遂行されたりとか、或いは戦時に遂行されたりとかを問わず、
   >  国際法上の犯罪・・・ 》
   > だと規定されている。
   >
   > 実に、日帝の 《間島大討伐》 は、朝鮮民族を抹殺する目的の下に、強行された
   > 稀世の野蛮、血に飢えた殺人魔達の極悪無道な反人類的犯罪だった。
   >
   > 日帝の 《間島大討伐》 の罪悪は、年月がどれだけ流れても絶対に隠す事が出来ない。
   > わが人民は、去る日、日帝が犯した朝鮮民族抹殺を狙った大虐殺蛮行を絶対に忘れず、
   > 必ずその代価を支払うのだ。
   >
   >
   > (訳 柴野貞夫 2009年11月18日)
   >
   > 訳注@《庚申年大討伐》=《間島大虐殺》は、以下のサイトを参照
   > http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/history/20.htm
   > http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/history/21.htm
   > http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/rekishi.htm

 討伐された逆賊が逆恨みしているだけでした。


 ■ 満州抗日戦争 ■

   満州事変は悪ではない 〜ぎりぎりの中の決断〜
   http://www.geocities.jp/vivelejapon1945/mansyu.html
   > 岩波書店の広辞苑によると満州事変とは
   > 「 1931年9月18日、奉天(今の瀋陽)北方の柳条湖の鉄道爆破事件を契機とする
   >  日本の中国東北侵略戦争。 十五戦戦争の第1段階。 翌32年には、満州国を樹立。
   >  華北分離工作を得て、日中戦争へ発展。」
   > とあるが、これは年表以外はまったく間違っているといえる。
   > まず、鉄道爆破事件であるが、これは正しい。
   > だが、決して中国東北部への侵略戦争ではない。
   > なぜなら、満州は中国の領土ではなかったから。
   > また15年戦争という語は支那事変を含む、中国共産党の抗日戦争史観である。
   > 日本は強引に満州国を樹立したわけではなく、満州人の方から独立宣言が起こっているし、
   > 満州事変がなかっても支那事変(日中戦争)に突入したと思われる。
   > そのぐらい当時の支那大陸においてはプロパガンダに煽られた理性なき反日が
   > 世論を支配していた。
   >
   > まず、満州は一度も中国人による支配をうけていない土地であるということを証明したいと思う。
   > まず万里の長城であるが、これは北方の民族が攻めてこないようにつくったのであり、
   > これは万里の長城より北は漢民族、つまり中国人の土地ではないということを
   > おのずと物語っている。
   > 清という国家は女真族(満州人)の国家であり、このときには確かに満州は清の領土である。
   > ただし、清が漢民族ではなく満州人だということから考えれば満州が中国領とはいえまい。
   > それどころか、清は漢民族の満州への移住を「封禁政策」をもって禁じていた。
   > それは祖先の地である満州への愛着を感じていたであろうし、もしもの時に満州へ
   > 退却できるようにと考えたのであろう。
   > 元朝の時も満州を支配しているが、元はモンゴル人の国家だからこれまた、
   > 満州が中国領とはいえない
   > ( ただ、フビライ=ハンを中国人だと思っている無知な中国人がいるみたいだが )。
   > ゆえに、満州は中国領だとはいえず、満州事変は中国侵略とはいえない。
   > このことを隠すために満州は中国東北部という当時なかった名前を使用している。
   >
   > それどころか、満州はロシアのものであったという意見すら当時あった。
   > 満州事変の発生前の1931年の7月28日及び31日に来日中であった広東政府外交部長の
   > 陳友仁が幣原喜重郎外務大臣を尋ね満州に関して話し合ったおりに、幣原喜重郎は
   > 「 支那人は満州を支那のものと考へてゐるやうだが、
   >  私共からみれば、それはロシアのものだった。
   >  団匪事件の後に、牛荘の領事を任命するのに
   >  ロシアの許諾を求めたといふやうな事情であった。
   >  支那の学生などは、さうした歴史を知らないから自分の力で満州を取り戻したやうに
   >  考へてゐるが、ロシアを追ひ出したのは日本である。(*1 )」、
   > ちなみに幣原喜重郎は中国寄りだと批判された人物である。
   > つまり、中国領ではなくロシア領に一時、満州はなっていたと考えることも出来るのだ。
   > ロシアであったかはどうかは重点ではない、満州は中国であったかどうかであるので、
   > いずれにせよ満州は中国領でなかったことは確かだといえよう。
   >
   > では、なぜ満州事変が起こったのか。 それは起こるべくしておこったのである。
   > 満州事変当時に駐華公使であった重光葵は手記『昭和の動乱』の上巻に
   > 以下のことを言っている。
   >
   >  「 当時の日本人は国家及び民族の将来に対して非常に神経質になつていゐた。
   >   日本は一島国として農耕地の狭小なるはもちろん、その他の鉱物資源も
   >   云ふに足るものはない。
   >   日清戦争時代に三千万余りを数へた人口は、その後三十年にして六千万に倍加し、
   >   年に百万近い人口増加がある。
   >   この莫大なる人口を如何にして養ふかが、日本国策の基底を揺り動かす問題である。
   >   海外移民の不可能なる事情の下に、日本は朝鮮及び台湾を極度に開発し、
   >   更に満州における経済活動によりこの問題を解決せんとし、また解決しつつあった。
   >   もとより、海外貿易はこの点で欠くべからずでつたが、これは相手があつてのことで、
   >   さう思うようには行かぬ。
   >   満州問題は、日本人の生活上、日に日に重要性を加へて行つた。
   >   日本人の勤勉は、単に生きんがためであつて、生活水準を引き下げるものではなかつた。
   >   国際連盟は戦争を否認し、各国の軍備の縮小を実現せんとした。
   >   しかし、人類生活の根本たる食糧問題を解決すべき経済問題については、
   >   単に自由主義を空論するのみで、世界は欧州各国を中心として
   >   事実上経済閉鎖に逆転してしまつた。
   >   ・・(省略)・・
   >   かくの如くして、第一次大戦後の極端なる国家主義時代における列国の政策は
   >   全然貿易自由の原則とは相去ること遠きものとなつた。
   >   国際連盟の趣旨とする経済自由の原則自由の原則なぞは、全く忘れられてゐた。
   >   日本は増加する人口を養ふためには、その汗水の働きによる海外貿易の発展に
   >   以来することが出来なくなつて、遂に生活水準の引下げを強要せらるるようになつた。
   >   この問題について日本が特に密接なる関係をもつのは支那との関係である。
   >   対支貿易と支那の排日運動のため重大な打撃を受け、
   >   ・・(省略)・・
   >   日本の権益は支那本土においてのみならず、満州においても張学良の手によつて
   >   甚しく迫害せられる運命におかれた。
   >   日本がこれらの権益を排日の嵐の中で、現地に於いて防衛することは、
   >   もとより容易の業ではない。
   >   しかも日本が、経済的に支那本土より排斥せられるのみならず、更に満州より
   >   駆逐せられることは、日本人自身の生活そのものが脅かされる次第であつた。(*2)」
   >
   > まさにそのとうりであろう。
   > 1929年に世界恐慌がおこると、世界各国は経済ブロックをつくるにいたったのである。
   > とくにアウタルキー、持てる国であるイギリスはポンドブロック、米国は汎アメリカブロック、
   > フランスもフランスブロックをつくるなどである。
   > しかし、日本はこれに対抗しようがなかったということは自明である。
   > 近衛文麿は手記 「元老重臣と余」 に次のことを書いている。
   >
   >  「 思ふに満州事変の有無に拘らず、日本の周辺には列国の経済ブロックによる
   >   経済封鎖の態勢がすでに動きつつあつたのである。
   >   英帝国中心のブロック、米ブロック、ソ連ブロック等で、世界の購買力の大半は
   >   日本に対して封鎖状態にならんとしてゐた。
   >   人口からいへば英帝国の四億五千万、米国一億二千万、ソ連一億六千万、
   >   合計七億以上であるから世界総人口の三分の一である。
   >   しかもこれは文化のもっとも発達した国々を含んで居るから、
   >   その購買力たる三分の一に止まらず、恐らく半分以上或いは三分の二以上にも上がる
   >   だろう。
   >   これだけのものが満州事変の有無に拘らず、また国際連盟の脱退の如何に拘らず、
   >   日本に対して閉ざされんとする情勢にあつた。
   >   ・・(省略)・・
   >   かく列強の経済ブロックの暗雲が、次第に日本の周辺を蔽はんとしつつある時に、
   >   この暗雲を貫く稲妻の如く起こつたのが満州事変である。
   >   たとへ満州事変があの時あの形で起こらなくとも、晩かれ早かれこの暗雲を払ひのけて、
   >   日本の運命の道を切り拓かんとする何等かの企ては、必ず試みられたに違ひない。
   >   満州事変に続く支那事変が遂に、大東亜共栄圏にまで発展せねばならなかつたのも、
   >   同じ運命の軌道を辿つてゐたのである・・・(*3)」
   >
   > さすが、近衛文麿である。 明晰なことを述べている。
   > あの時代にはもはやこれしか選択肢がなかった。
   > あの時代はぎりぎりの状況の中で最善の策を探ろうとしたのである。
   > そう考えるとやはり満州事変とは日本の誇るべき部分の歴史の一ページである。
   >
   > 鉄道の爆破であるが、これが日本軍によって行われたということは
   > 戦後に明らかになったことである。
   > 事件発生当時は首相である田中義一もこのことを知らず、陸軍中央部も知らず、
   > 同じ関東軍の参謀の中にも知らないものもいたという(*4)。
   > だからといってこれを軍部の独走であるというのはことが早すぎる。
   > まず、陸軍も知らない、関東軍の中にも知らないものがいたということは
   > 少数の有志による行動と思われる。
   > それは石原莞爾や板垣征四郎らの計画であるが、これはもやはりこの時代として
   > 他国の排他的経済ブロックによって国家の存亡に関わっていたことを考えれば仕方がない。
   > 仮に国内プロセスには問題があったとしても国際的になんの問題があるのか。
   > 当時の状況は中村震太郎大尉殺害事件や朝鮮農民に中国農民が襲撃するという
   > 万宝事件なども発生しており国内世論は対支強硬であったし、1928年の日本人が
   > 中国人に虐殺された済南事件などもあり、中国に対しては厳しかった。
   > こういった複合的な要因の中で満州事変は起きたのである。
   >
   > 満州は中国ではないのだし、日本としても満州を安全化することが
   > 国家存亡への道であった。 満州事変は決して悪ではない。 むしろ誇らしい決断である。
   >
   > *1 中村粲 『大東亜戦争への道』p334 (展転社、1990)
   > *2 Ibid, p317
   > *3 Ibid, p318
   > *4 林房雄 『大東亜戦争肯定論』p323(夏目書房 2001)
   >
   >
   > 参考文献
   > 中村粲 『大東亜戦争への道』 / 展転社 1990
   > 瀬島龍三 『大東亜戦争の実相』 / PHP研究所 2000
   > 田中正明 『パール判事の日本無罪論』 / 小学館 2001
   > 林房雄 『大東亜戦争肯定論』 / 夏目書房 2001
   > 石原莞爾 『最終戦争論』 / 中央公論新社 1993


   wikipedia「抗日パルチザン」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/抗日パルチザン - 2満州の抗日パルチザン

   > 中国共産党に吸収されたパルチザン
   >
   > 1922年の末、日本軍の撤退を受けたシベリアは、ソビエト共産党によって掌握され、
   > 日本との関係修復のために、独立をめざす朝鮮人パルチザンは武装解除された。
   > それにともない、多くの朝鮮人が満州に移動して独立運動の継続を試みたが、
   > シベリアでのロシア革命にともなった経験もあり、共産主義者となった者も多数いた。
   > 彼らは、1923年以降、延吉県、磐石県を中心に結集し、共産主義青年組織を立ち上げた。
   > 一方、朝鮮半島内でも朝鮮共産党が結成されていたが、第1次朝鮮共産党事件により
   > 満州へ亡命するものもあり、取り締まりのゆるやかな満州での活動が活発化した。
   >
   > しかし、朝鮮の共産党は内紛が激しく、満州では民族派(右派)独立軍とも競合し、
   > 暗殺をまじえた激しい内部抗争のために、抗日活動はさほど盛り上がらなかった。
   >
   > 1930年、コミンテルンの意向があり、満州の朝鮮共産党は、
   > 中国共産党に吸収されることとなる。
   > 中国共産党満州省委は、この方針に基づき「赤い五月」行動を指令した。
   > 朝鮮族の多い間島では、どれほど熱心にこの指令を実行するかで、
   > 朝鮮人の中国共産党入党の可否を決める、というような方針があり、
   > 間島五・三〇事件(間島暴動)が発生する。
   > 最初に行動を起こした部隊を率いていた人物の一人は、金一星(キム・イルソン)という
   > 龍井の大成中学生だった。
   > この暴動は断続的に翌年の春まで続くが、襲撃されたのは電気会社や鉄橋などの
   > 日本の施設と、富裕な朝鮮人・中国人で、100人を超える犠牲者もすべて朝鮮人・中国人だっ た。
   >
   > 1932年、関東軍の支配下で満州国が成立すると、満州全土で、反満抗日を旗印にかかげる
   > 武装団体が立ち上がった。
   > 東北軍閥、馬賊、宗教系武装団、朝鮮人民族主義者の独立武装団、そして、朝鮮人を含む
   > 中国共産党パルチザンである。
   > 共産党系のパルチザンは当初ごく少数だったが、満州国側の巧みな宣撫、掃討、帰順工作、
   > 政策(集団部落の創設)により、他の武装団体が衰弱、消滅していった中で、
   > その残党を吸収しつつ一番長く満州に残ったが、それによって、日本側からは共匪と呼ばれる
   > 匪賊の一種にもなった。
   >
   > 1932年の春、中国共産党磐石県委員会が朝鮮人20人あまりで軍事部を作ったのが、
   > 満州で最初のパルチザンだった。 同年のうちに、この部隊は230人あまりに膨らんだ。
   > とはいえ、当初は勢力拡大に専心し、またそれにともなう内紛もあって、目立った戦闘は
   > 行っていなかった。
   > 翌1932年には、中央の司令で、満州各地に人民革命軍を創設する運びとなり、
   > 磐石県パルチザンが核となって、馬賊を抱き込むなどで人数を増やし、通化県へと
   > 地域も拡大していき、数百から千人内外の東北人民革命軍第一軍が成立した。
   >
   > さらに1934年から1935年ころには、満州東部に第二軍、第五軍が設立され、
   > 北部には第三、四、六〜十一軍が編成された。
   >
   > 間島においては、1930年の暴動に引き続き、朝鮮人共産主義者がごく狭い地域で
   > ソビエト政府を標榜して、「土地私有廃止、共同労働、共同生活」 を唱えて
   > 騒動をまき起こしたりもしていたのである。
   > このように、1932年のはじめころからパルチザンの小部隊が散在し、中国共産党による
   > 組織化は遅れたが、パルチザンの核はすでにできていた。
   > 共産主義者の詩人・槇村浩が、高知市にいながら日本共産党の機関紙・無産者新聞の
   > 記事を見て、想像によって『間島パルチザンの歌』[3]を作り、
   > 「プロレタリア文学」に発表したのが1932年の春である。
   >
   > 東北人民革命軍は、二度ほど朝鮮半島内に侵攻しているが、もっとも世間を騒がせたのが
   > 東興事件である。
   > 1935年2月、第一軍の第一独立師200人ほどが、朝鮮人の隊長・李紅光に率いられ、
   > 西間島を南下し、氷結した鴨緑江を渡って、平安北道厚昌郡東興邑を襲撃した。
   > 民間人を殺害し、金品を略奪して、朝鮮人資産家の家に放火し、16人を拉致して
   > 引き上げたが、隊長の李紅光は若い女性であるという噂が流れ、話題になった。
   >
   > 東北人民革命軍は、資金が欠乏していたためか、東興事件のように、略奪・拉致を常としてい て、
   > 『間島パルチザンの歌』のイメージからはほど遠かった。
   > また内紛も多く、民生団事件では、400名あまりの朝鮮人隊員が粛清されたといわれる。
   > 民生団とは、1932年に朝鮮総督府が間島に発足させた民族主義反共朝鮮人組織だったが、
   > うまく機能せず、同年の内に解体していた。
   > したがって、事件がはじまった時点では存在していなかったのだが、
   > 人民革命軍は、結局は中国共産党の組織であり、数が多いにもかかわらず、
   > 朝鮮人隊員は排斥、疎外される傾向にあったのである。

 ただの赤い盗賊集団。 漫画『北斗の拳』に登場する「ヒャッハー」な集団です。

 討伐されて当然の事をやっていたのに、「日帝が悪い」ですか、そうですか(呆


 ■ 関東大震災時の朝鮮人虐殺 ■

   2011/06/17 依存症の独り言
   関東大震災における朝鮮人大虐殺のウソを暴く
   http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2011/06/post.html
   > 歴史を学ぶのは難しい。
   > それは、不明な部分が多く、時代とともに史実が変遷する古代史や中世史だけではない。
   > 近代史や現代史でも、ある種のバイアス(bias)がかけられている場合がままある。
   > だから、その昔に刷り込まれた歴史的事実が覆されることもしばしばである。
   > それは、特に日韓関係史において顕著である。
   >
   > このブログでも何度か言及したが、朝鮮人の強制連行、創氏改名の強制、“従軍”慰安婦、
   > これらは歴史的事実に反する。
   > しかも悪質なのは、これらの歴史歪曲が日本側の働きかけで行われたということだ。
   > そして、メディアや歴史学者のみならず、政治家までもが絡んで
   > 国民にバイアスがかけられてきた。
   >
   > で、最近になって、もう一つの歴史の捏造を知った。
   > それは、関東大震災時における在日朝鮮人虐殺である。
   > 私は、これは事実である、と長い間信じていた。
   > ただ、一連の日韓関係史の歪曲に気付いてからは、その数には疑問を抱いていた。
   > が、今は、“流言飛語に基づく虐殺”そのものが虚偽だと思っている。
   >
   > -------------------------------------------------------------------
   >
   > 私が、“流言飛語に基づく在日朝鮮人の虐殺”を事実と信じていたのには理由がある。
   > 実際に、朝鮮人と誤認されて殺されそうになった日本人の話を聞いたことがあるからだ。
   > その人は、恐怖と緊張のあまり、自警団から促された「十円五十銭」という言葉が出てこなかっ た。
   > その結果、危うく殺されそうになったのである。
   > が、自警団以外の民衆の中に、たまたま知り合いがいて難を逃れた。
   > その話を聞いて、私は、“流言飛語に基づく虐殺”は事実であると確信していたのだ。
   > また、後に大阪市長となった中馬馨(当時早稲田大在学中)は、群集に取り囲まれた挙句、
   > 下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたと語っている。
   >
   > なぜ日本人の自警団は、「十円五十銭」という言葉をその人に要求したのか?
   > 朝鮮語は単語の語頭が濁らないから、朝鮮人であれば発音は「ちゅうえんこじゅっせん」とな る。
   > つまり、朝鮮人か否かを判別するために「十円五十銭」という言葉を用いたのである。
   > この話は、極めてリアルで説得力があった。
   > なぜなら、生家の近くに住んでいた在日一世は、十円を「ちゅうえん」と言い、
   > 五円を「こえん」と言っていたからだ。
   > 自警団は、こうして朝鮮人を選別し虐殺した、と私は思っていた。
   >
   > -------------------------------------------------------------------
   >
   > 当時出回った“流言飛語”とは
   > 「 朝鮮人が暴徒化した 」 「 井戸に毒を入れ、また放火して回っている 」
   > という類いのものだ。
   > この噂を耳にした日本人市民が危機意識に駆られて 「社会を防衛するため」 に
   > 自警団を結成し、前述したように朝鮮人を摘発し殺害した。
   > これは事実である。
   >
   > 当時の内務省警保局の調査でも 「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」 が
   > 大震災の混乱の中で殺されている。
   > ほかにも、東京帝大教授の吉野作蔵作造による調査では
   > 「朝鮮人の(虐殺)犠牲者は2711人」 とされている。
   > 左翼が、よく引用する朝鮮人(上海の大韓民国臨時政府)の調査では6415人とされているが、
   > これはまったく信用できない。
   > 彼ら一流のプロパガンダの臭いが芬芬である。
   >
   > 吉野作蔵作造は当時有名なリベラリストであり、朝鮮の独立運動家を擁護していた。
   > だから彼は、朝鮮人の証言をそのまま受け容れた可能性が高い。
   > 一方、内務省警保局の数字は、裏づけの取れたもののみを集計している。
   > 従って、「虐殺された証拠のある朝鮮人は231人」が、より正しいと思う。
   >
   > ところで、「231人」とはいえ、虐殺された朝鮮人がいるのに、
   > なぜ私は“流言飛語に基づく虐殺”そのものを虚偽と思うようになったのか?
   > それは、“流言飛語”が、あながちウソとは言えない事実を知ったからだ。
   >
   > -------------------------------------------------------------------
   >
   > 下の画像を見てほしい。
   
   政府による記事差止めが解除されたことを受けて事件の正体を報じる
   10月22日付東京時事新報
   >
   > ここで注意してほしいのは、「10月22日付」という新聞の発行日である。
   > 関東大震災が起きたのは1923年9月1日午前11時58分。
   > つまり、この記事は、震災発生後50日以上が経過した後のものなのだ。
   > 実は、震災直後、“流言飛語”を新聞が記事にし、それが国民の不安を煽ったため、
   > 政府は報道管制を敷いていた。
   > が、この時点では、既に“流言飛語”も自警団による朝鮮人摘発も沈静化していた。
   >
   > 政府や警察は、当初は朝鮮人を取り締まる姿勢を見せていたが、
   > 自警団による朝鮮人摘発が先鋭化したため、そのことによる社会不安の発生を
   > 逆に恐れるようになった。
   > そこで朝鮮人に関わる各種噂(“流言飛語”)がデマであると積極的に広報し始めた。
   > そして、警察署や海軍施設などに避難してきた朝鮮人を収容し、自警団や先鋭化した民衆から
   > 保護したのだ。
   > さらに10月に入ると、警察は逆に日本人自警団を取り締まるようになった。
   > このように非常事態が収束に向かう中で、10月21日に記事差止めが解除され、
   > 翌22日から震災時に起きた朝鮮人による数々の事件が報道されるようになったのである。
   >
   > つまり、上記の記事は、“流言飛語”でも反朝鮮人感情を煽るものでもない。
   > それまで政府によって伏せられていた事実を報道しただけのものだ。
   >
   > @ 9月2日、朝鮮人が、榎本○○を棍棒で襲撃し負傷させた。
   > A 9月2日、崔○○と金○○が、在郷軍人団に対し拳銃を発射した。
   > B 9月2日、林○○が、6連発銃を持って群集に向け数発を発射した。
   > C 9月2日、朝鮮人30余名が、バイクに乗った高橋克巳砲兵中尉を棍棒で襲撃した。
   > D 9月2日、日本刀を持った朝鮮人が、自警団を装い被災民を襲撃しようとしたが
   >   取り押さえられた。
   > E 9月2日、朝鮮人が、「津波が来る」と連呼して民心を撹乱しようとした。
   > F 9月2日、朝鮮人が日本婦人を強姦した。
   > G 9月2日、朝鮮人が、鉄棒を使って橋脚を破壊しようとしていたが、
   >   騎兵に発見され射殺された。
   > H 9月3日、李○○は、被災民の唯一の給水所付近を毒(亜○酸)を所持して徘徊していたが、
   >   民衆に捕らえられ、毒を食塩と強弁していたが、それを飲まされて悶死。
   > I 9月2日、呉○○は、荒川放水路の本田橋堤防上でダイナマイトを所持していて
   >   取り押さえられた。
   > J 9月3日、朝鮮人が小学校脇で日本人を殺害した。
   >
   > 以上が、東京時事新報が報じた、大震災直後に朝鮮人が起こした犯罪である。
   > 「火のないところに煙は立たぬ」 という諺があるが、
   > 「朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」
   > という噂は、単なる“流言飛語”ではなかったのだ。
   >
   
   戒厳司令部の命を受けて朝鮮人の避難場所となった旧・海軍横須賀鎮守府。
   大勢の朝鮮人が保護された。
   >
   > -------------------------------------------------------------------
   >
   > 在郷軍人団に対し拳銃を発射、群集に向け拳銃を発射、軍人を集団で襲撃した、
   > 津波が来るとデマを流した、女性を強姦した、橋脚を破壊しようとしていた、
   > 給水所付近を毒を所持して徘徊していた、堤防上でダイナマイトを所持していた、
   > 日本人を殺害した、これだけのことが大震災直後に起これば、その話はまたたく間に
   > 被災地全体に広がる。
   > そして、通信手段が壊滅状態のため伝聞に頼るしかない状況下においては、話は大きく膨ら む。
   > 大地震と猛火で打ちひしがれた被災民たちが、朝鮮人に恐怖と敵意を抱いても不思議ではな い。
   >
   > つまり、“流言飛語”の源は朝鮮人自身にあったのだ。
   > 新聞の記事中にはないが、その所業を見れば、混乱に乗じて「放火」を企てた朝鮮人がいても
   > 不思議ではない。
   > 事実、記事が報道されたころには、警察は「朝鮮人による放火」の捜査に乗り出している。
   > これに対して日本人社会が自警団を結成し、自己防衛に走ったのは至極当然のことである。
   > もちろん、内務省警保局の調査にもあるように、朝鮮人と誤認されて殺害された日本人も
   > 相当数いることを見れば、自警団の行為が過剰防衛だったと非難することはできる。
   > が、当時の状況を考えれば、それを「過剰防衛」と断言できるだろうか?
   >
   > いずれにしても、“流言飛語”に惑わされた日本人が無辜の朝鮮人を大量虐殺した、という
   > 史実は事実ではない。
   > “流言飛語”の元は朝鮮人自身の暴挙によって作り出された。
   > それに対して、大震災で壊滅的打撃を受けた日本人社会が過剰に反応した、これが事実であ る。
   > そして、警察も軍も自警団の過剰防衛ぶりを見て、逆に朝鮮人保護に乗り出した。
   > その結果、犠牲者は「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」で収束したのである。
   >
   > 長い間、“流言飛語”に惑わされた日本人によって6500人もの無辜の朝鮮人が虐殺された、
   > とされてきたが、これも捏造された“左翼神話”だったのだ。
   >
   > プロパガンダに騙されてはならない!
   >
   > 歴史は実証的に理解しよう!


   2010年08月03日 関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実
   http://jack4afric.exblog.jp/14321006/
   > 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、相模湾の海底を震源とする
   > マグニチュード7.9の巨大地震が関東地方を襲い、
   > 死者・行方不明者:10万5385人、家屋全壊:12万8000戸、家屋半壊:10万2000戸、
   > 家屋全焼失:44万7000戸、避難人数:190万人以上という未曾有の大災害が起こります。
   >
   > これが世にいう関東大震災ですが、この震災の混乱に乗じて朝鮮人が暴徒化し、
   > 井戸に毒を投げ入れたり、放火してまわっているという流言蜚語が流れ、
   > これらの流言蜚語を信じた日本人によって、無辜の朝鮮人が何千人も虐殺されるという
   > 悲劇が起こったという話は、既成事実化していますが、昨年暮れに出版された、
   > 工藤美代子著、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』で、著者はこのような定説に異議を唱え、
   > 震災時に暴徒化した一部の朝鮮人が暴行や略奪、放火を行ったのは事実であると
   > 主張しています。
   >
   >
   > ☆ 朝鮮人殺害は正当防衛だった
   >
   > 著者によると、朝鮮人がまず最初に暴徒化したのは、震源地に近く、被害が格別、甚大だった
   > 横浜で、地震により警察組織が機能不全に陥ったことをよいことに、不逞鮮人と呼ばれた
   > 朝鮮人の不満分子が徒党を組み、略奪を欲しいままにし、日本人婦女を暴行してまわった
   > といいます。
   >
   > この不逞鮮人の集団は、暴行、略奪を繰り返しながら、多摩川を越えて、東京西部に
   > 侵入してくるのですが、東京では震災直後から火事場泥棒など震災のどさくさに紛れて
   > 悪事を働く人間を取り締まるために各町内ごとに自警団が組織されていて、これら自警団が
   > 暴徒となって襲ってくる朝鮮人の集団を迎え撃ち、その結果として殺害される朝鮮人が
   > 出たものの、これはあくまでも襲われた側の日本人による正当防衛であって、
   > 虐殺と呼べるようなものではなかったと著者は主張しています。
   >
   > ノンフィクション作品、『関東大震災』を書いた作家の吉村明など 「朝鮮人虐殺はあった」 と
   > 考える作家や歴史家の多くは、虐殺が起こった理由として、日本は朝鮮半島を植民地にして
   > 朝鮮人の恨みを買っていたから、日本人は朝鮮人がいつか自分たちに復讐するのではないか
   > と恐れていた。 そのような朝鮮人に対する潜在的な恐怖が震災を機に一挙に表面化し、
   > 朝鮮人が暴行、放火を行っているという流言蜚語が流れたとき、多くの日本人がそれを
   > 簡単に信じてしまい、朝鮮人虐殺に走ったのだと説明しています。
   >
   > しかし、この『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』の著者は、日本人が朝鮮人を恐れていたの は、
   > 朝鮮人に対する「後ろめたさ」や「罪の意識」など漠然とした心理的な理由によるものではなく、
   > 現実に、当時の日本で、朝鮮人によるテロや犯罪が頻発していたためであると主張していま す。
   >
   > つまり、日本人の朝鮮人に対する恐怖や不信には、確かな根拠があったというのです。
   >
   >
   > ☆ 日本を取り巻く状況
   >
   > 関東大震災が起こる4年前、1919年に大韓民国初代皇帝高宗の死をきっかけに朝鮮で
   > 三・一運動と呼ばれる独立運動が起こり、運動の波は朝鮮半島全域に広がり、
   > 当時の朝鮮総督府はそれを厳しく弾圧しました。
   >
   > その結果、独立運動の指導者たちは朝鮮半島を逃れ、上海のフランス租界に
   > 「大韓民国臨時政府」を設立し、日本にも多くの朝鮮人テロリストが潜入するようになります。
   >
   > この三・一事件の起こる2年前の1917年にはロシア革命が起こり、
   > 社会主義が勃興するのですが、共産ロシアは朝鮮の独立運動を支持すると共に、
   > 日本の赤化を夢見て、日本の社会主義者たちを煽動します。
   >
   > その結果、ロシアの支援を受けた朝鮮独立運動家と日本の社会主義者が共謀して、
   > 上海の仮政府と連絡を取り合いながら、日本を拠点に様々なテロ工作を行うようになります。
   >
   > 日本の国内情勢も不安に満ちていました。
   >
   > ロシア革命が起こった1917年(大正6年)には、大正天皇の「御不例」=病状の深刻さが
   > 公表され、国民の間に動揺が広がります。
   >
   > 天皇の病状は悪化の一途をたどり、1921年11月25日に20歳になっていた皇太子
   > (後の昭和天皇)が摂政に就任するのですが、その直前の1921年11月4日には皇太子の
   > 摂政宮就任に尽力した原敬首相が暗殺されてしまいます。
   >
   > 社会面では、第一次大戦後の不況が日本を襲い、米価の大暴落に起因する米騒動が
   > 頻発し、労働運動が激化するのですが、そのバックには、無政府主義者や社会主義者、
   > 共産主義者が暗躍していて、民衆を煽動していたといいます。
   >
   >
   > ☆ 皇太子暗殺計画
   >
   > 著者は、朝鮮人テロリストや日本人社会主義者の真の目的は、関東大震災が起こった
   > 1923年の11月27日に予定されていた「御大典」=皇太子御成婚の儀に向けて
   > 波状テロをしかけることにあったといいます。
   >
   > この御成婚の儀は、関東大震災が起こったために延期されるのですが、摂政宮である
   > 皇太子を暗殺し、それにより日本の国体を揺るがせて、自分たちの独立運動の勝利に
   > 結び付けようというのが朝鮮独立運動家の目標だったというのです。
   >
   > 第一次世界大戦の引き金となった1914年のサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件を
   > 思い起こさせる話ですが、実際、昭和天皇は皇太子時代に何度もテロの標的になっています。
   >
   > 1921年のヨーロッパ訪問のときには、途中の寄港地、香港で朝鮮独立運動の過激派集団
   > 「義烈団」による皇太子の拉致暗殺計画が発覚しましたし、震災直後の1923年9月1日には、
   > 大正天皇と皇太子の暗殺を企てたとして、朝鮮人無政府主義者、朴烈と日本人の愛人、
   > 金子文子が逮捕されています。
   >
   > さらに同じ年の12月27日は、無政府主義者の難波大介が、虎ノ門で、
   > 自動車で貴族院へ向かっていた皇太子をステッキに仕込んだ散弾銃で狙撃するという
   > いわゆる虎ノ門事件が起こっています。
   >
   > 朝鮮人独立運動家と日本の社会主義者たちは、御成婚日に皇太子暗殺を最終目標とする
   > 一連のテロを行うために、上海の仮政府と共謀して計画を練り、資金調達のための銀行強盗や
   > 武器・弾薬の密輸を行っていたのが、突然、予期しなかった関東大震災が起こり、
   > それを好機とみた彼らは、予定を急遽、前倒しして、震災で混乱している東京で波状テロを
   > 決行することに決めたというのです。
   >
   > 大震災時の朝鮮人によるテロが統制がとれておらず、てんでんばらばらに行われたのは、
   > まだ計画が煮詰められていない段階で、急遽、実施に移されたからではないかと
   > 著者は推測しています。
   >
   >
   > ☆ なぜ朝鮮人による暴行、放火はなかったことにされたのか
   >
   > 震災の被害は当然のことながら、東京の新聞社にも及びますが、
   > 唯一、奇跡的に社屋の倒壊を免れた東京日日新聞は、9月3日に号外ではない、
   > 正式な新聞を再発行します。
   >
   > この再発行された9月3日の東京日日新聞の紙面は、以下のような見出しの
   > 朝鮮人による暴行や放火を報じる記事で埋め尽くされています。
   >
   > 「不逞鮮人各所に放火、帝都に戒厳令を布く」
   > 「鮮人、いたる所めったぎりを働く、二百名抜刀して集合、警官隊と衝突す」
   > 「鬼気全市に漲る」
   > 「日本人男女、十数名を殺す」
   > 「横浜を荒らし、本社を襲ふ、鮮人のため東京はのろひの世界」
   >
   > 上記の記事は、東京警視庁の9月2日の発表に基づくもので、この段階でわざわざ警察が
   > 朝鮮人の犯罪をでっち上げなければならない理由は存在しません。
   >
   > また震災時の朝鮮人暴徒による乱暴狼藉については、新聞以外にも多くの目撃証言が
   > 残っています。
   >
   > それではなぜ、現在では、朝鮮人による暴行、放火は単なる流言蜚語で、そのようなことは
   > 実際には起こらなかったとされているのでしょうか。
   >
   > 著者は、震災の翌日の9月2日に成立した山本権兵衛内閣で内務大臣に就任した
   > 後藤新平が取った政策がその原因だと主張しています。
   >
   > 後藤新平は、事態をこのまま放置すると、朝鮮人暴徒と日本人自警団の抗争が激化し、
   > 内戦状態になるのではないかと危惧し、朝鮮人による犯罪の報道を意図的に抑えて、
   > 国民の朝鮮人に対する恐怖感をやわらげ、自警団に武器を放棄させたというのです。
   >
   > 9月5日には、前記の東京日日新聞を初めとする新聞各紙に次のような内務省の告示が
   > 掲載されます。
   >
   > 「 善良な朝鮮人を愛せよ
   >  ● 善良な朝鮮人を敵視してはなりませぬ
   >  ● 警察力も兵力も十分ですからこれに信頼して安心してください
   >  ● 各自に武器等を執って防衛する必要はありませぬ
   >  ● 勝手に武器を携帯することは戒厳司令官の命令に依り堅く禁ぜられておりますから
   >    やめて下さい
   >
   > 注意すべき点は、ここでは朝鮮人による略奪や暴行がなかったとは一言もいっていない
   > ことです。
   >
   > 不逞鮮人は警察や軍隊がちゃんと取り締まるから、市民は武器を棄てよ、
   > 朝鮮人の中には善良な人間もいるのだから、彼らには手を出すな、といっているのです。
   >
   > 実際、数は少ないものの、無実の朝鮮人が巻き添えになって殺される例も起きていた
   > といいます。
   >
   > その後、新聞各紙には、以下のような見出しの「流言蜚語」や「善良な朝鮮人」に関する記事が
   > 次々と掲載されるようになります。
   >
   > 「鮮人の爆弾、実は林檎、呆れた流言蜚語](9月8日「東京日日新聞」)
   > 「鮮人団相愛会が無償で道路工事、誤解をとく為に奉仕」(9月11日各紙)
   > 「鮮人に救われた老婆、行方も分からぬ命の恩人」(9月13日「東京日日新聞」)
   >
   > 後藤新平は、当時、警視庁幹部だった正力松太郎に次のように語ったといわれています。
   >
   >  正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。
   >  だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろ う。
   >  必ずその報復がくる。
   >  報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは
   >  済まされない。 だからここは自警団には気の毒だが引いてもらう…
   >
   > その年の11月27日に予定されていた皇太子の御成婚の儀を標的とした朝鮮独立運動家と
   > 社会主義者たちのテロ計画があることは、内部大臣である後藤新平の耳にも当然、入ってい て、
   > 後藤は、そのようなテロを成功させないためにも、朝鮮人と日本人の民族間の融和を図る
   > 必要があると考えたというのです。
   >
   >
   > ☆ 「虐殺」人数の嘘
   >
   > 関東大震災で虐殺されたとされる朝鮮人の人数については、
   > 上海に亡命した大韓民国臨時政府が発行する機関紙、「独立新聞」は、6419人と報じていま す。
   >
   > もう一つ、在日朝鮮人学生を中心とする「同胞慰問班」の調査員、チェ・スンマンが
   > 独自に調査した結果である2607人という数字が存在し、「朝鮮人虐殺」関連の資料では、
   > 後者の数字が引用されていることが多いそうです。
   >
   > しかし、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』の著者は、「独立新聞」の6419人という数字は
   > もちろんのこと、「同胞慰問班」の2607人という数字も、きわめていい加減で、
   > まったく信用できないといいます。
   >
   > 統計によると、関東大震災が起こった1923年に日本に居住していた在日朝鮮人の総数は
   > 8万人あまりです。
   >
   > 内、東京に9000人、近県に3000人、合わせて1万2000人が首都圏に住んでいたそうですが、
   > 震災時に帰郷、仕事、休暇などの理由で首都圏を離れていた人間を差し引くと、
   > 震災当日の東京と近県の在日朝鮮人総数は、約9800人であると著者は推定しています。
   >
   > 一方、9月17日時点で、6797人の朝鮮人が東京市内各所に収容・保護されていたという
   > 公式記録が存在し、前記の9800人のからこの6797人を差し引くと約3000人になります。
   >
   > 戒厳令司令部によると、自警団による過剰防衛で殺害された朝鮮人は、233人、
   > 震災による朝鮮人の死者・行方不明者は、推定1960人、
   > これらの人数を上記の3000人から差し引くと、残りは810人となり、
   > これが日本人の正当防衛によって殺害された朝鮮人の暴徒・テロリストの数になると
   > 著者は推定しています。
   >
   > つまり、「虐殺」に該当するのは自警団の過剰防衛により殺害された233人だけだった
   > というのです。
   >
   > 関東大震災では、地震そのものよりも地震の後に起こった火災による死者の方が
   > 圧倒的に多かったといいますが、著者が主張するように朝鮮人暴徒・テロリストが
   > 市内各所を放火してまわり、その結果、起こった火災により、何万人もの人々が焼死した
   > のだとすれば、これまで、いわれてきたのとは反対に、関東大震災では、日本人によって
   > 多数の朝鮮人が虐殺されたのではなく、朝鮮人暴徒・テロリストによって、何万人もの
   > 大量の日本人が虐殺されたことになります。
   >
   > 著者がこの著書で名指しで批判している「朝鮮人虐殺はあった」派の作家や歴史学者は、
   > この批判にどう答えるのでしょうか。


   2009年08月27日 特定アジアの東の国で考えるブログ
   関東大震災 朝鮮人が虐殺されたというのはウソ
   http://blog.livedoor.jp/otsu3/archives/50942885.html
   > ここで地震ネタ。
   > 「 関東大震災のとき、日本人が朝鮮人を虐殺した。」 というのは有名な話である。
   > 実際、そうだと信じている人が多い。しかし真実は全く違うのである。
   >
   「鮮人等の跋扈非常に横暴を働いて居り・・・
   
   >
   >
   > 「囚人三百名脱獄し鮮人と共に大暴状」
   
   >
   >
   「不逞鮮人各所に放火」
   
   >
   >
   「不逞鮮人益々拡大」
   
   >
   >
   「不逞鮮人一千名と横浜で戦闘開始」
   
   >
   >
   「毒薬を投じた水を売歩く女鮮人」
   
   >
   >
   「鮮人一部の暴挙は既に完全に取締りを遂行した」
   
   >
   >
   「鮮人暴動は流説」
   
   >
   >
   > (以下、引用)
   >
   > この件の問題点及び日本人がインプットしておかなくてはならないことは
   >
   > 1 実際、一部の不逞鮮人たちが放火・掠奪・殺人・強姦・日本軍一個小隊を壊滅等、
   >   あらゆる破壊活動を行った。
   >
   > 2 それら行為に対抗するため軍隊・自警団が検挙・射殺・撲殺をした。
   >
   > 3 不逞鮮人の暴徒を鎮圧したにもかかわらず、流言飛語が飛び交い、
   >   犯罪を犯そうとしていない鮮人にも"疑いを"かけた。
   >
   > ま、「従軍慰安婦」「起源捏造」「拉致はない」などのように、
   > 何事も朝鮮人の定説を額面通り受け取ってはダメですな。
   >
   > (引用終わり)


   2014年09月09日 MIZUHO no KUNI ≪2ch≫特亜ニュース
   【埼玉】「虐殺を風化させない」、
   関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に 埼玉県議、本庄市長、教育委員長らが参加
   http://mizuhonokuni2ch.blog.fc2.com/blog-entry-5538.html

   > 114: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2014/09/08(月) 19:03:03.67 ID:reGSb4sg.net
   >
   > 6 :名無は禁止:2014/09/03(水) 08:43:48.37 ID:kf7bNkYW0
   > http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1409589572/13
   >
   > 13 : ボマイェ(静岡県)@\(^o^)/[sage] :2014/09/02(火) 01:44:18.42 ID:KP2u7SRI0
   > やっぱり事実だったようです。
   >
   > ■ 当時の新聞の切り抜き
   >
   【「震災時、朝鮮人の犯罪はデマ」説こそデマだと司法当局が認める。
    レイプ、暴行、幾多の犯罪】
   http://mizuhonokuni2ch.blog.fc2.com/img/193a619a.jpg/
   
   >
   >
   【横浜から品川方面へ朝鮮人の集団が刀や爆弾を持ち、暴れまわって婦女を強姦】
   http://mizuhonokuni2ch.blog.fc2.com/img/58d93301.jpg/
   http://mizuhonokuni2ch.blog.fc2.com/img/03dde07a.jpg/
   
   >
   >
   【千葉、大島、亀戸、長野での朝鮮人による暴行】
   http://mizuhonokuni2ch.blog.fc2.com/img/5e372386.jpg/
   
   >
   >
   【発電所を襲う朝鮮人】
   http://mizuhonokuni2ch.blog.fc2.com/img/e1690676.jpg/
   
   >
   >
   【朝鮮人による放火】
   http://mizuhonokuni2ch.blog.fc2.com/img/4fcd80b4.jpg/
   http://mizuhonokuni2ch.blog.fc2.com/img/2b6efe39.jpg/
   

   

   > 44: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2014/09/08(月) 14:46:29.83 ID:SAQ6cB+B.net
   > 東京時事新聞(1923年10月22日)
   > 関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ 放火殺人暴行掠奪につぎ
   > 橋梁破壊も企てた不逞団
   >
   > 9月1日の震災直後東京を始め関東一帯の人を騒がせた流言蜚語の為に
   > ついに 内鮮人にして殺害される者算無く、是が流言の出所に就いては
   > 尚解明されていないが、一部の不逞朝鮮人が混乱裡に左の如く有うる犯行を逞ふした事は
   > 事実で、司法当局は 爾来極力是が犯罪検挙に努めた結果、
   > 昨二十一日先ず取り調べを終わり、同時に 記事差し止めを解除した
   > 既に起訴されたもの十数件、此外治安警察法違反、窃盗 横領等により起訴した朝鮮人
   > 二十三名、放火、毒物投入、爆弾携帯、掠奪、婦人に 対する暴行、その他の事件につき、
   > 東京横浜に於いて操作中のものも亦少なくない
   >
   >
   > 大阪朝日新聞(1923年9月3日)
   > 「早川 東朝新聞社員甲府特電」
   > 朝鮮人の暴徒が起こって横浜、神奈川を経て八王子に向かって
   > 盛んに火を放ちつつあるのを見た


   2008年08月29日 朝鮮歴史館
   関東大震災の真実−デマは本当だった
   http://ameblo.jp/campanera/entry-10132841183.html
   > ■ 関東大震災
   >
   > 関東大震災(かんとうだいしんさい)は、
   > 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒(以下日本時間)、
   > 神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生した
   > 海溝型の大地震(関東地震)による災害。
   > 東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に甚大な被害をもたらした
   >
   >  死者・行方不明者 : 14万2800人
   >
   >  負傷者 : 10万3733人
   >
   >  避難人数 : 190万人以上
   >
   >  住家全壊 : 12万8266戸
   >
   >  住家半壊 : 12万6233戸
   >
   >  住家焼失 : 44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
   >
   >  その他 : 868戸
   >
   >
   > ■ 本庄事件
   >
   > 地震の数日後、東京の様子は避難民たちの口々から伝えられたが、
   > この時東京でのデマがまだ生きており、埼玉県の本庄町(今の本庄市 )では、
   > 朝鮮人が震災に乗じて東京を焼き払い、日本人を大量に殺害し、この中仙道をやってくる
   > というデマが流れた。
   > まったく事実無根のデマであったが、町では郡役所の幹部などが県庁からの通達といって
   > 消防団等になどに事実として伝え、対策に乗り出すよう指示したとされている。
   >
   > それから数日が経過した9月4日、警察が保護した朝鮮人たちを乗せたトラックが
   > 本庄町を通過し、群馬県に入ろうとした。
   > そのトラックが上里町 (当時の神保原村)を抜けて群馬県の手前で足止めを受けた。
   > その後トラックは群馬県に入らず本庄に引き返し、夕方本庄署にたどり着いた。
   > この時本庄署では地元住民達のデマを収拾するために警察官が動員されており、
   > 警察署はほぼ無人の状態であった。
   >
   > 本庄署に着いたトラックを取り囲むように地元の住民達が集まり、
   > その後一斉にトラックの上の朝鮮人達に襲い掛かり、リンチに発展した。
   > 警察も人員不足から十分に阻止することができず、この事件で五十から百人程度の
   > 朝鮮人が殺されたとされている。
   > また、このリンチに加わったものの多くは執行猶予付の騒擾罪を受けたとされている。
   > (朴慶植/著 未来社「朝鮮人強制連行の記録」)
   >
   > 尚、本庄事件の裁判記録による殺傷行為の部分では
   > (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)
   > 「 当時極度に昂奮せる群衆は同署 (注:本庄警察署) 構内に殺到し来りて
   >  約三千人に達し、同夜中(注:9月4日)より翌五日午前中に亘り
   >  右鮮人に対して暴行を加え騒擾中
   >
   > 一、被告Aは同日四日同署構内に於て殺意の下に仕込杖を使用し、他の群衆と相協力して
   >   犯意継続の上朝鮮人三名を殺害
   >
   > 一、被告Bは同日殺意の下に同署構内にて鮮人を殺して了えと絶叫し長槍を使用し、
   >   他の群衆と協力して犯意を継続の上鮮人四、五名を殺害
   >
   > 一、被告Cは同月五目同所に於て殺意の下に金熊手を使用し、他の群衆と相協力して
   >   鮮人一名を殺害
   >
   > 一、被告Dは同月四日同演武場に於て殺意の下に木刀を使用し、他の群衆と相協力して
   >   犯意を継続の上鮮人三名を殺害し、尚同署事務所に居りたる鮮人一名を引出し
   >   群衆中に放出して殺害せしめ (以下略) と記録されている。
   >
   > http://ja.wikipedia.org/wiki/関東大震災
   >
   >
   > > 朝鮮人が震災に乗じて東京を焼き払い、日本人を大量に殺害し、この中仙道をやってくる
   > > というデマが流れた。
   >
   > 9月1日 地震発生
   >
   > 9月2日 不逞鮮人が暴徒化
   >
   >  福岡日日新聞 大正12年9月2日号外第四
   >  「帝都無秩序 鮮人横暴」
   >
   >    徒党を組み暴徒、放火、殺人、暴行、略奪、強姦、爆弾・石油を携帯し放ち、
   >    水道に毒薬を放ち、 発電所を襲い、列車爆破を企画し、さらには隊を組み
   >    日本の一個小隊を全滅させその後一個中隊との戦闘へ突入。
   >
   >  下越新報 大正12年9月3日附録
   >  「上下水道青色毒散布、脱獄強姦掠奪殺人爆弾押収」
   >
   >  小樽新聞 大正12年9月3日号外第一
   >  「隊をなして石油・爆弾使い放火」
   >
   >  小樽新聞 大正12年9月3日号外第三
   >  「鮮人各所暴動検束数千名」
   >
   >  大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外
   >  「横浜〜王子放火」
   >
   >  荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報
   >  「爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」
   >
   >  新愛知 大正12年9月4日号外
   >  「横浜で戦闘開始 日本陸軍一個小隊全滅 発電所襲撃 放火逮捕困難」
   >
   >  新愛知 大正12年9月4日号外
   >  「屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」
   >
   >  名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二
   >  「浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」
   >
   >  福岡日日新聞 大正12年9月4日号外
   >  「殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」
   >
   >
   > 9月4日 軍隊、自警団などがあらゆる暴虐をはたらく不逞鮮人を射殺・撲殺・検挙
   >       鮮人の暴徒が各地で知れ渡る。 沈静後も流言飛語が飛び交う
   >
   >  小樽新聞 大正12年9月4日号外第一
   >  「爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」
   >
   >  九州日報 大正12年9月4日号外第三
   >  「鮮人捕縛 爆弾其の他押収」
   >
   >
   > 軍隊が治安維持に出動したため、不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、
   > 鎮圧鎮静化へ
   >
   > 警視庁、不逞鮮人暴動パニック沈静化及び 「不逞鮮人では無い鮮人」 保護のため
   > 「取締りは完全に遂行した」 と急告通達。
   > しかし 「不逞鮮人では無い鮮人」 も爆弾、毒薬を疑われる。
   > 何回も通報があり、警察出動するも調査により誤通報多数
   >
   >  大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二
   >  「鮮人暴挙は完全取締を遂行」
   >
   >  東京日日新聞 大正12年9月8日第一版
   >  「流言飛語に対しての通報に呆れる」
   >
   >
   > 9月5日 日本政府が 「不逞鮮人では無い鮮人」 の保護を閣議決定
   >       「不逞鮮人では無い鮮人」たちを習志野に収容。
   >
   >  大阪毎日新聞 大正12年9月5日号外第二
   >  「政府の震災対策 鮮人保護」
   >
   >  東京朝日新聞 大正12年9月6日特報第三
   >  「鮮人習志野に収容 軍隊不逞鮮人取締で人心安定に向かいつつあり」
   >
   > 「 不逞鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、
   >  また未遂の事実はなきにあらざるも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、
   >  最早決して恐るる所はない。」
   >
   > ↓当時の新聞記事は下記のURLからご覧ください。
   > http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?cmd=read&page=%CE%F2%B (消えています)
   >
   > 在日が関東大震災でデマを信じて日本人は大量虐殺したと得意げにいいますが、
   > 実は自業自得なのです。
   >
   > なぜなら、震災で日本人が逃げ惑う中で、
   > 朝鮮人は実際に放火・掠奪・殺人・強姦・日本軍一個小隊を壊滅等、
   > あらゆる破壊活動を行ったかあです。
   > 人間としては一番やってはいけない火事場泥棒を働いたのです。
   >
   > いくら、警察が鎮圧したから大丈夫だといったところで信じられるわけが無いのです。
   >
   > つまり、元はと言えば在日が悪いのです。
   > 在日が暴動を起こさなければ報復を受けて殺されることは無かったのです。
   > 罪のない日本人が間違えられて殺されることも無かったのです。
   >
   > 加害者が被害者に摩り替わるいつもの手です。
   >
   > 日本人は騙されてはなりません。


   関東大震災朝鮮人暴動はデマではなく実話!朝鮮人テロリストの襲撃
   https://www.youtube.com/watch?v=r0bZoEfXl2I
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   ★★★★★ なぜ、加藤康男は「関東大震災 朝鮮人虐殺はなかった」と断言するに至ったの か?
   2014/9/11 投稿者  閑居人 - レビューをすべて見る
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   レビュー対象商品: 関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった! (WAC BUNKO 203)

   > 本書は、2009年に 「工藤美代子」 の名前で出版された本のリメイク版である。
   > 著者名は「加藤康男」に代わっているが、そもそも二人は夫婦であり、
   > 同じ頃「工藤」の名前で出版された 「近衛文麿もの」 も根幹は共同研究であろう。
   > 構成も依って立つ資料も同じと考えられる本書だが、「結論」 に関して言えば、決定的に
   > 異なっている。
   > 前著では、全体のトーンは
   > 「 虐殺の実態については明確な検証が必要であり、6000人という数字は事実ではない 」
   > というものだった。
   > しかし、今回の本では 「 関東大震災 朝鮮人虐殺はなかった 」 と断言している。
   > この明らかな、著しい変化は、恐らく加藤が抱く韓国人の歴史認識についての
   > 「心証」 の深まりと、韓国が仕掛ける歴史戦争に対する 「危機感」 からくるものだろう。
   >
   >
   > 1 「関東大震災 朝鮮人6000人虐殺」は、果たして真実なのか?
   >
   > 中高の歴史教科書には、
   > 「 関東大震災に際して、朝鮮人が井戸に毒を投げ入れているといった流言斐語が飛び交い、
   >  日本人自警団などが無実の朝鮮人6000人を殺した 」
   > と記述されている。
   > このことは、疑うべくもない自明のこととして教科書には書かれているが、
   > それはそもそも真実なのか?
   > まず、このことの当否から問われなくてはいけない。
   > 「1919.3.1 万歳事件」 の後、上海のフランス租界に作られた李承晩、金九らの
   > 「上海仮政府」 は、「独立新聞」 という機関誌を持っていた。
   > 関東大震災後、彼等は 「慰問団」 を派遣して朝鮮人犠牲者数を調査した。
   > その数字が 「6419人」 であり、その約半数は死体が確認できなかったが、
   > 慰問団の 「同胞としての『勘』で計上した数字」 だという。
   > 著者によれば、吉野作造の 「2600人」 という数字も、その根拠は 「或る朝鮮人紳士」 の
   > 調査によるものとのことだから、出所に共通性はあるだろう。
   > 繰り返し著者は強調するが、これらの彼等の数字を信頼すると、
   > 「地震と火事で死んだ朝鮮人は一人もいない」 ことになる。
   >
   >
   > 2 当時の 「東京府統計」 等によれば、東京には9000人、横浜には3000人の朝鮮人がいた。
   >
   > 著者は、このうち、一万人弱の朝鮮人が本所、深川を中心とする京浜地区で
   > 被災したのではないかと推定する。
   > 「流言斐語」 によって自警団に殺された朝鮮人がいなかったわけではない。
   > 自警団の過剰警備による死者は、東京府警察発表で233人、
   > 起訴された日本人は300人を超える。
   > しかし、一方で、朝鮮人被災者は特別に保護されていた。
   > 習志野陸軍宿舎の3000人を筆頭に9月半ばの時点で約6800人の朝鮮人は
   > 各地の警察署等に保護され、食料や被服の配給を受けていた。
   > ( 後藤新平の国会答弁による )
   > 残る、不明の約2700人程度の朝鮮人の中には、震災によって死亡したと推定される者が
   > 2000人前後いたとしても不思議はない。
   > この著者の推定は、下町の朝鮮人家屋の脆弱さから日本人の死亡率をやや高めたものであ る。
   > このようなことから、著者は、「本当に生死不明だった朝鮮人は、800人前後」 であろうと
   > 推測する。
   > その朝鮮人は或いは被災で死んだかも知れないし、実際に放火や暴行、強姦を企てて
   > 自警団に殺され、数字に表れなかった者かも知れない。
   > 或いは、上海から送り込まれたテロリスト集団であったかも知れない。
   > その数字も真実も今となっては解き明かせない。
   >
   >
   > 3 朝鮮人のテロ行為はあったのか? 「自警団」 は、不必要だったのか?
   >
   > この問題を考える上で避けて通れないのが、「流言斐語」 の信憑性である。
   > その判断によって、この 「虐殺問題」 への考え方は、大きく変わってくるだろう。
   > 「流言斐語」 に実態があるならば、
   > 「 大震災を奇貨とする朝鮮人テロ行為があり、東京市民との間に悲劇が起きた 」
   > ということになる。
   > これまで、左翼史家はもとより、吉村昭の著作に見られるように、
   > 「流言斐語」 には否定的で批判的な見解が多い。
   > 吉野作造の論説や、後に後藤新平が日韓宥和のために 「朝鮮人良民説」 に
   > マスコミを誘導しようとした論説などが、傍証として引用される。
   > しかし、「上海仮政府」 が紛れもないテロリスト集団であり、
   > ロシア革命以後、社会主義者の扇動によってさらに過激化していたことも、事実である。
   > このことを著者は、当時の日本の新聞記事を引用しながら、
   > 1919年以降、朝鮮人テロ行為が日本国内でも頻発していた実態を示す。
   > 日本政府、朝鮮総督府は絶えず警戒し、神経を尖らせていた。
   > 特に、「210日」 前後が、日本は颱風に襲われることが多いことから、
   > 1923年9月2日を目標に大規模な東京を中心とした騒乱事件が企画されており、
   > 思わぬ大震災によりその企ては前倒しされる形で行われようとしていた、と著者は書く。
   > また、11月の皇太子の結婚を狙ったテロ計画も存在した。
   > その詳細は、直接、本書に当たってもらいたいが、金九という朝鮮人テロリストや
   > 「冬のアゼリア」
   > ( イギリスに向かう皇太子殿下を香港で暗殺しようとして未遂に終わった事件 )
   > 等を考えれば、荒唐無稽な話ではない。
   >
   > 「自警団」 にまつわる様々なエピソードも興味深い。
   > 新宿の自警団の一人が、64歳の 「内村鑑三」 であり、地方から救援に駆けつけた
   > 警察官達を自宅の聖書講義室を開放して宿泊させたことなど、
   > 当時の日本人一般の常識めいた感覚だろう。
   >
   >
   > 4 ロンドンに残る独立運動派の 「謀略文書」
   >
   > 本書299ページ以下に、社会主義者が関与したと見られる 「謀略文書」 が紹介されている。
   > これは、駐日イギリス大使館経由で本国の外務大臣に報告された文書で、
   > 「 在中国英国大使館に何者かによって送付されてきた
   >  Massacre of Koreans in Japan という小冊子 」
   > である。
   > この 「小冊子」 は、ある意味では典型的な中国・韓国製の謀略冊子で、
   > その内容は、1905年の 「旅順虐殺事件」 、後の 「南京大虐殺事件」 の謀略文書を
   > 彷彿させるものである。
   > それらの関連文書に親しんだ読者は、その構成類型と殺人・強姦・暴行の
   > 猟奇的表現の類似性に興味を抱くに違いない。
   > この文書では、虐殺された朝鮮人の数を23059人として、
   > その証人の一人として 「中央公論編集長吉野博士(東大教授吉野作造と思われる)」 を
   > 挙げている。
   >
   > 本書をリメイク版として発行した著者の動機には、
   > 韓国の歴史捏造をこれ以上許さないためには、はっきりしたもの言いが必要だ
   > という 「心証」 があったものと思われる。
   > もう一つは、拉致問題で活躍するN氏 (西岡力氏のことと思われる) が、
   > 「関東大震災・朝鮮人虐殺」 を信じていることに感じた 「危機感」 がある。
   > 慰安婦問題で韓国政府を厳しく批判するN氏ですら、検証なしの 「神話」 に
   > 囚われているのではないか。
   > 「慰安婦問題」 の虚構が暴かれようとしている現在、韓国が 「関東大震災・朝鮮人虐殺」 を
   > 次のターゲットにしていることは事実である。
   > 過日、韓国人が見慣れた関東大震災の写真を 「朝鮮虐殺写真を発見」 として発表したが、
   > 日本人が 「そんなバカなことが」 と笑っているうちにいつのまにか宣伝戦のさなかに
   > 放り込まれているのである。
   >
   > あえて言えば、「関東大震災・朝鮮人虐殺」 は、当時の日本を代表する
   > 政治学者・社会論評家である吉野作造がその信憑性を裏書きしたために
   > 定説化したのではないか。
   > 別な言い方をすれば、「上海仮政府」 の 「朝鮮人紳士」 は
   > 巧みに吉野を取り込むことに成功したのだ。
   > 「流言斐語」 に実態はあり、「不逞鮮人」 は間違いなく存在した。
   > 興味深いことに 「上海仮政府」 の正統性とその独立への戦いを
   > 彼等が強調しようとすればするほど、その後の昭和天皇暗殺未遂事件や
   > 上海天長節爆破事件などを宣伝しなければならなくなる。
   > その実態は 「テロ」 であり、幹部達も粛清・暗殺を重ねていたのだ。
   > 「関東大震災」 における 「自警団」 の活動は、基本的に正当防衛であり、
   > 当時の状況を総体的に考えれば 「緊急避難」 としてはやむをえないものであったと判断でき る。
   > もちろんそれは、「悲劇」 であったが、特別 「虐殺」 の汚名を着せるに値するものではない。
   > なぜなら、「上海仮政府」 のテロ行為も同じく俎上に乗せない限り、公平ではないからである。
   >
   > 「金九」。 現代韓国政府が英雄視して、教科書にまで取り上げる男の実像がどんなものか。
   > その実態とその子孫達のあくなき欲望・野望を知れば、泉下の吉野作造は
   > 「朝鮮人紳士」 の正体をどう思うことだろう。

 東日本大震災の惨禍は未だ記憶に新しいが、あの惨状下でわざわざ朝鮮人を狩る気になる震災被 害者がいるとでも思うのか。 たとえ、日々、朝鮮人を劣等民族と見下して何かにつけて怨恨の意を抱 いていたとしても自分が生きて行く状況を確保するだけで精一杯。 他者を殺す余裕なんかない。 そ れでも朝鮮人が殺されたというのであれば、それは殺す理由があったからに他ならない。
 日本が敗戦したと見るや掌を返して戦勝国民を名乗り、日本人に対して悪逆非道の限りを尽くした朝 鮮人の本性を被災地で如何なく発揮した、それを被災地の日本人が返り討ちにしただけである。


 ■ アジア・太平洋戦争時の強制連行 ■

 丁度、次のページが“コレ”ですので、ココでは割愛します。

 ■ 日本軍「慰安婦」 ■

 もう完全に論破済みです。

 つ [ http://keibow001.dousetsu.com/page782.html ]

 というわけで、

   日本は日清戦争と日露戦争以降、とりわけ朝鮮植民地支配のなかで、
   民族運動への弾圧(甲午農民戦争、義兵戦争、三・一独立運動、間島虐殺、満州抗日戦争など)
   や関東大震災時の朝鮮人虐殺、アジア・太平洋戦争時の強制連行、日本軍「慰安婦」など、
   朝鮮人に対して幾多の人権蹂躙を行ないました。

 というのは加害者の被害妄想というトンデモでした。



 しかし、日本ではこうした人権蹂躙を植民地における「非日常(戦時/有事)」の出来事とし、
 他方で植民地社会の「日常」にはそれとは異なる「平和な」生活が存在していた、という
 歴史認識が根強く存在しています。
 もちろん、植民地の人々にも日常生活があること自体は当然のことです。
 しかし、それが、植民地時代における「近代化」の進展によって、
 人々の平和な日常がもたらされていると、まるで植民地支配の恩恵であるかのように考えるのは
 あまりに都合のよい一面的な主張です。
 例えば、『マンガ嫌韓流』は、日本人が朝鮮社会の近代化に努めたということを強調しながら、
 「 あの時代、確かに日本人と朝鮮人の友好関係が存在したのね 」
 などと、登場人物をして語らせています。

 

 友好だったんだよ。 私にも信じられないことだけれど。

   日韓併合時代の真実 かつて日本と朝鮮が手を取り合って、仲良く生きていた時代があった
   http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi02.htm
   > 親から聞かされた「日本人は親切だった」
   >
   > 日本には今日、悲しい風説が飛び交い、それによって多くの人々が惑わされています。
   > たとえば、
   > 「 日本はかつて朝鮮を侵略し、朝鮮の人たちを弾圧し、虐待し、搾取し、ひどいことをした 」
   > といった類の風説です。 学校でも習ったでしょう。 あたかも事実であるかのように。
   > 日本は悪者だ、と教え込まれてきたのです。
   > しかし、こうした主張が本当なのか、それとも事実とは違うのか、
   > 私たちは、当時の実体験を持つ長老たちに聞かなければなりません。
   > 韓国人の女性で、呉善花(お・そんふぁ)さんというかたがいます。
   > 日韓関係についてたくさんの本を書いているかたですが、
   > 彼女は小さい頃、親の世代から
   > 「 日本人はとても親切な人たちだった 」
   > と聞かされていました。
   > ところが、学校に入学すると、先生から、
   > 「 日本人は韓国人にひどいことをした 」
   > と教わって、すさまじいばかりの反日教育を受けたのです。
   > それでいつしか、学校で教えられるままに、
   > 「 日本人は韓国人にひどいことをした 」
   > という認識が、彼女の中で常識となっていました。
   > 彼女はその後日本に渡って、日本で生活するようになりました。
   > すると、かつて親から教えられた
   > 「 日本人はとても親切な人たちだった 」
   > という言葉が、再びよみがえってきたのです。
   >
   [ 画像:日韓併合時代中、1936年のソウル、南大門通り。(省略)
   >
   > それで彼女は、日本と韓国の歴史について、もう一度勉強し直しました。
   > やがて彼女は、韓国で受けた反日教育というものが、非常に偏った、間違いだらけのもので
   > あることを知るようになります。 そして、反日主義から抜け出したのです。
   > 彼女はのちに、『生活者の日本統治時代』(三交社)という本を出版しました。
   > これは、かつて日本が朝鮮を統治した時代 ―― つまり日韓併合の時代(1910〜1945年)を
   > 実際に体験した日本人や韓国人にインタビューして、それをまとめたものです。
   > そこには、日本統治下の朝鮮を実際に体験した日韓15人の証言が書かれています。
   > いずれも、今はかなりお年をめされた方々ばかりです。
   > 彼らは貴重な証言を残してくれました。
   > 彼らの体験談を通し、あの朝鮮における日本統治時代は実際はどんなものだったか、
   > ということが非常にはっきり見えてきます。
   > 私たちは彼らの証言に耳を傾けてみましょう。
   >
   [ 画像:日韓併合前のソウルの様子 (省略)
   >
   > 日本統治下の朝鮮を体験した人々の証言
   >
   > たとえば阿部元俊さんは、大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、
   > そこで学生時代を過ごした人です。
   > 文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのですが、彼はこう言っています。
   > 「 私が朝鮮にいたころ、日本人による朝鮮人いじめの話は、噂としてもまず聞いたことが
   >  ありません。
   >  とくに、ソウル郊外の水原にいたころは、日本人が少ないからと珍しがられて、
   >  地域の人たちはみな親切にしてくれていましたしね。
   >  少なくとも水原では、私の知る限り、日本人と朝鮮人とが衝突したとか、喧嘩したとか、
   >  何かのトラブルがあったといった話は聞いたことがありません。
   >  ……
   >  ソウルでもそうでした。
   >  ……
   >  学校では、
   >  『 ここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。
   >   朝鮮人と喧嘩したり、朝鮮人をいじめたりは絶対にしてはいけない 』
   >  と盛んに言われていましたし、親からも厳しくそう言われていました。
   >  …… 私の父は医者で、貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、
   >  それで病原菌をもらってしまいまして、腸チフスと赤痢にかかってしまいました。
   >  父が病院を辞めるときには、多くの朝鮮人が家にやって来て、
   >  『 どうか辞めないで、ここにいてください 』
   >  と泣いて別れを惜しんでいました。
   >  ……
   >  戦後、日本に帰ってから、朝鮮に住んでいた日本人は朝鮮人をさかんに
   >  苦しめたという言葉を、当然のようにぶつけられましたが、自分の体験からすると、
   >  いったいそれはどういうことなのか、どう考えてもわかりません。
   >  喧嘩ということだけでなくて、問題になるようないじめとか、差別とか、
   >  一般生活者の間ではほとんどなかったということを、私は自分自身の実体験から
   >  自信をもって言うことができます 」
   >
   > このように阿部さんは、一般庶民のレベルでは朝鮮人と日本人は仲良くやっていたと、
   > 証言しています。
   > 今日、韓国の学校教育では、
   > 「 日帝は、全国いたるところで韓民族に対する徹底的な弾圧と搾取を行ない、
   >  支配体制の確立に力を注いだ 」
   > 「 日帝の弾圧に苦しめられたわが韓民族は、光復(戦後の解放)を得るまでの間、
   >  植民地政策に対して自主救国運動を展開した 」
   > 等と教えられています。
   > このようなことを教えられると、日本人はまるで朝鮮でヤクザのようにふるまい、
   > 日本人は朝鮮人を虐待し、両者は至る所で非常に仲が悪かったような感じですね。
   > しかし、実際に朝鮮における日本統治時代を体験した人々に聞くと、まったく違う様子だった
   > のです。
   >
   > たとえば、生まれも育ちも朝鮮の新義州(今日の北朝鮮北部)という林健一さんも、
   > こう語っています。
   > 「 日本人による朝鮮人差別ということは、まったくありませんでした。
   >  学校で生徒同士は完全に対等で、上級生の朝鮮人が下級生の日本人を呼び寄せて、
   >  『 お前は服装がなっていない 』
   >  とか説教することなんかがたびたびありましたね。
   >  ……
   >  朝鮮を出て、日本の内地に行きたいとも思いませんでした。
   >  朝鮮の人々はよかったですし、私も居心地がよかったですから。
   >  ……
   >  骨をどこに埋めるかと聞かれれば、『朝鮮』と答えたものです 」
   >
   > また、日本統治下のソウルで青春時代を過ごした吉田多江さんは、こう語ります。
   > 「 近所の子どもたちともよく遊びました。
   >  私は朝鮮の女の子たちの長く束ねた髪の毛がうらやましくて、私がさわりたいと言うと、
   >  よく触らせてくれました。
   >  ……
   >  何の区別もなくつき合っていました。
   >  ……
   >  仲のよかった思い出がいっぱいで、朝鮮人と日本人の間でいじめたりいじめられたりと
   >  いったことは、本当に見たことも聞いたこともありません。
   >  ……
   >  朝鮮はとても治安がよくて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞いたこともありません。
   >  ……
   >  横暴なふるまいなど一切ありませんでした。
   >  戦後になって日本に送還されるときも、家財道具を盗られるなんてこともなく、
   >  こちらから知り合いの人たちにあげましたし、彼らはみな喜んで感謝の礼を表してくれました。
   >  こんな素晴らしいことって、あるでしょうか。 世界に誇れることだと思います。
   >  ……
   >  創氏改名(日本人名を名乗ること)を強制的にさせたとも言われますが、
   >  私のまわりの朝鮮人はみな終戦までずっと朝鮮名のままでした。
   >  戦後の韓国で言われてきた歴史には、あまりに嘘が多いと思います。
   >  ……
   >  私はソウルで生まれ、成年になるまでソウルで生きてきましたが、
   >  日本人と韓国人が基本的に仲良く生きてきたことは、双方の民族にとって誇るべきことだと
   >  思っています 」
   >
   >
   > 朝鮮人と日本人は仲良く生きていた
   >
   > また同じく、日本による朝鮮統治時代を体験した韓国人の朴承復さんも、こう語っています。
   > 「 学校では日本人生徒たちからも先生からも、差別されたことはありませんでした。
   >  ……
   >  今でも日本人の同期生たちと会うと、彼らは韓国語で話したがります。
   >  ……
   >  今なおそれほど親しくつき合っている日本人の同期生が何人もいます。
   >  商業学校の恩師二人は、とても尊敬できる方でした。
   >  一人は松尾先生で、国語の先生でした。
   >  この先生は韓国人、日本人にかかわりなく尊敬されていました。
   >  ……
   >  もう一人は横尾先生です。 この先生は日本人生徒たちからは嫌われていました。
   >  めちゃめちゃに厳しくて、過ちを犯せば決して許さない方でした。
   >  しかし、私はなぜか特別に可愛がってもらいました。
   >  いろいろな相談にものっていただいた大恩師です。
   >  卒業後、朝鮮殖産銀行に務めましたが、差別的な扱いを受けたことは全くありません。
   >  ……
   >  行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。
   >  日本人も韓国人も区別なく、みんな仲良く楽しく遊んで過ごしました。
   >  日帝時代にそんなことあり得ないと言われるかもしれませんが、
   >  過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人の
   >  ぶつかり合いなんか、見たこともありません。
   >  …
   >  多くの日本人は、朝鮮人から家をちゃんと借りて住んでいました。
   >  日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんなことはなかったです。
   >  当時の日本人は本当に質素でした。
   >  ……
   >  私自身は当時の日本人に対して悪い印象は全く持っていませんでした 」
   >
   > また、ソウルの京城帝国大学で学んだ韓国人の閔圭植さんは、こう語っています。
   > 「 私は個人的には日本人と仲がよくて、悪い感情はありませんでした。
   >  日本人が韓国人に恐怖を与えたとか、韓国人が日本人に殴られたとか、
   >  何か嫌がらせをやられたとかいったことは、個人的には見たことも聞いたこともありません。
   >  ……
   >  日本人が韓国人の家を奪って勝手に使うとか、土地や財産を搾取するとかいうことも、
   >  まったくありませんでした。
   >  神社参拝については、何かの日には学生全部が連れて行かれました。
   >  行かなくても別に厳しい文句は言われませんでしたが 」
   >
   > また、日韓共同映画『愛の黙示録』を作り、3000人の韓国人孤児を育てた日本人
   > 田内千鶴子さんの生涯を描いた監督・金洙容さんも、こう語っています。
   > 「 農場の日本人たちはとても勤勉でした。
   >  日本人は早くから科学的で先進的な農法を使っていました。
   >  ……
   >  日本人の経営する農場には、韓国人たちもたくさん働いていました。
   >  日本人は日当をきちんと計算して渡してくれました。
   >  彼らはとても礼儀正しく、日当を支払わないようなことはまずしません 」
   >
   > また、新義州の中学や高校に通っていた李萬甲さんは、こう語っています。
   > 「 朝鮮人は私一人でしたが、日本人の同級生みんなに親切にしてもらいました。
   >  ……
   >  日本人の先生には立派な方がいらっしゃいました。
   >  ……
   >  創氏改名は昭和一五年からのことでした。ほとんどの人が変えていましたね。
   >  ……
   >  しかし、官庁に務める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。
   >  ……
   >  日本人が韓国人の生活を侵害するとか、略奪するとか、そんな類のことは日本人は
   >  全くしませんでした。 日本人は法に反することをしないようにと、非常に気をつけていました」
   >
   >
   [ 画像: 新興工業都市、興南(日韓併合時代、1942年) (省略)
   日本人も朝鮮人も協力しあって働いていた
   >
   >
   > 朝鮮人に助けられた思い出
   >
   > さらに、新義州の朝鮮人学校で教鞭をとっていた佐久間房子さんは、こう語ります。
   > 「 朝鮮人家庭を訪問することはかなり多かったです。
   >  招待を受けて他の先生たちと一緒に行きますと、家族全員が出てきて
   >  丁寧にお辞儀をしてくれます。
   >  その丁重な歓待ぶりには、いつもこちらは恐縮するばかりです 」
   > この佐久間さんは、戦後、日本へ送還されるとき、朝鮮人に助けられた経験があるといいます。
   > 「 収容所の三畳ほどの部屋に八人で暮らしていましたが、
   >  何かのおりに朝鮮人の元従業員たちが来てくれて、そのたびに
   >  『 こんな狭いところで生活しているなんて、かわいそうだ 』
   >  と涙を流してくれるんです。
   >  ……
   >  やがて送還船に乗ることができました。
   >  送還のときには、下に住んでいた朝鮮人たちが泣きながら見送ってくれました。
   >  ……
   >  あの人たちの命をかけた好意は一生忘れることはできません 」
   > このように朝鮮人に助けられた、親切にされたという日本人も、非常に多かったのです。
   >
   > また、朝鮮総督府(日本による朝鮮統治の中心)の警察幹部だった坪井幸生さんは、
   > かつて朝鮮で共に働いていた多くの朝鮮人と、深い友情を持ち続けているといいます。
   > 坪井さんはこう言っています。
   > 「 彼らとは今も、本当によい気分で話ができるのです。
   >  こういう私たちの関係を、『日本は悪いことをした』式の見方をする人たちは、
   >  どうみるのでしょうか。
   >  日帝時代に、日本が朝鮮に対して悪いことをしたのであれば、警察部長をやっていた私など は、
   >  その悪の最大のものと言われるでしょう。
   >  そうであれば、彼らがつき合ったりするはずがありません 」
   >
   > 私たちクリスチャンが気になる神社参拝については、どうでしょうか。
   > 昭和18年から朝鮮総督府で働いていた工藤真澄さんは、こう語っています。
   > 「 朝鮮では神社数が圧倒的に少なくて、神社のない地域がたくさんあるわけです。
   >  学務課では、参拝するのかどうかについて議論されていましたが、
   >  強制へ向けて動くというのうようなことはありませんでした。
   >  いずれにしても、終戦直前の一年ほどの間のことです。
   >  その一年間、ソウルでは朝鮮神宮に中学生以上が月に一度、参拝するようにしていた
   >  かもしれません。 平壌では、神社参拝を義務にしたり強制したりしたことはありません 」
   > また、朝鮮総督府には、朝鮮人の職員も多かったといいます。
   > 工藤さんはこう語っています。
   > 「 朝鮮人とは同じ役人として一緒にすわって仕事をしていましたし、朝鮮人課長の下に
   >  日本人課長補佐がいることもありました。
   >  そういうなかで、とくに日本人と朝鮮人がぶつかり合うようなことは
   >  見たことも聞いたこともありません。
   >  ……
   >  日本人が特権的に振る舞える条件など全くありませんでした 」
   >
   > また日本統治時代、ソウルの京城帝国大学で学んだ吉田道弘さんは、こう語ります。
   > 「 私は第15回の卒業生で、予科のときのクラスには日本人が25人、
   >  朝鮮人が10人いました。 同級生の一人に金永善がいました。
   >  彼とはとくに仲がよかったです。
   >  ……
   >  金永善は戦後、国会議員になりましたが、李承晩政権の反日政策に反発して、
   >  野党にあり続けました。
   >  彼は与党政権から弾圧を受けて、監獄にまで入れられたんですが、田中総理がお願いして
   >  出ることができました。 彼はのちに駐日大使となって、日本に派遣されました 」
   >
   >
   > 日本人は不法なことをしないよう気づかっていた
   >
   > さらに、一番始めに述べました阿部元俊さんは、従軍慰安婦問題に関する質問に、
   > こう答えています。
   > 「 日本人が朝鮮の田舎に行って、若い娘たちを奪ってきたと言われますね。
   >  そんなことはあり得ないです。
   >  もしそんなことをしたら誘拐犯ですし、懲役刑を受けることになります。
   >  いや、法律の問題以前に、村の人たちにめちゃめちゃにやられてしまいますよ。
   >  ……
   >  またそんなことがあれば、必ず私の耳にも入ってきたはずです。
   >  でも、そんな話も噂も一度も聞いたことがありません。
   >  これはね、当時朝鮮に住んでいた日本人の名誉にもかかわることです。
   >  ……
   >  警察署長も朝鮮人でしたし、裁判所の判事、検事などにも朝鮮人がいました。
   >  朝鮮総督府では、局長、部長、課長にも朝鮮人がいました。
   >  もちろん警察官は、朝鮮人だろうと日本人だろうと同じ権限を持っていました。
   >  そういう状況下で女狩りが堂々と行なわれ、一人として問題にする者がいなかったなんて、
   >  あり得ないことです。
   >  全人口の1%にすぎない日本人が、そんなに悪いことをして安全に生きられたわけが
   >  ないんです 」
   > 阿部さんは、従軍慰安婦問題というのは、戦後になされた歴史捏造にすぎないと
   > 断言しているわけです。 阿部さんはまた、戦時中の徴兵についてはこう語りました。
   > 「 昭和18年に、学徒動員となり、日本人学生たちは強制的に呼び出されて
   >  戦地に向かいました。
   >  ……
   >  そんなときでも、大部分の朝鮮人は戦地に行く必要がありませんでした。
   >  正直な話、朝鮮人がうらやましかったですよ。
   >  『これは差別じゃないか』と言ったりもしたもんです。
   >  朝鮮人までが徴兵されるようになったのは、昭和19年4月からのことでした。
   >  ……
   >  自ら志願して戦地に行った朝鮮人たちもたくさんいました。
   >  ……
   >  しかし志願ではなく戦死した人たちもいますし、
   >  ……
   >  それを思うと本当に心が痛みます 」
   >
   > 以上、いろいろな方の証言をみてきました。
   > いずれも、日本統治下の朝鮮を実体験された方々です。
   > これらの証言からみえてくるものは、かつて日本人と朝鮮人が手を取り合って生きていた
   > 時代があった、ということです。 庶民レベルでもごく普通に仲良くつき合っていました。
   > また朝鮮総督府内でさえ、机を並べて日本人と朝鮮人が共に働いていたのです。
   > 日本が朝鮮を支配した36年間において、両者の間に若干の衝突事件はありました。
   > しかしそれらはきわめて散発的なものでした。 規模も小さいものでした。
   > 日本統治下の台湾に比べれば、朝鮮の反日運動はきわめて少なかったのです。
   > 全体的にみれば、日本統治下の朝鮮において、日本人と朝鮮人の間には良好な関係が
   > 築かれていました。
   > もちろん当時、日本と朝鮮は一体でしたから、戦争末期には朝鮮国内でも徴兵や徴用
   > (労働に呼ばれること)が行なわれ、苦痛を感じた者たちも多くいました。
   > しかし、それは日本人も同じだったのです。 日本と朝鮮は運命共同体になっていました。
   > だからこそ、朝鮮で徴兵制が敷かれる以前にも、朝鮮人の中には自ら志願して兵士となり、
   > 日本人と一緒に敵と戦おうという人たちが少なくなかったのです。
   > その朝鮮人志願兵の倍率は、昭和17年にはなんと採用数の62倍にも達し、
   > 非常に狭き門でした。
   > それほど多くの朝鮮人が、志願してまでも日本人と共に戦いたいと願ったのです。
   > 彼らの中には特攻隊の隊員となって散っていった人々もいました。
   > このように朝鮮の人々と日本人が共に生きていた時代が過去にあったことを思うと、
   > 私は感無量の思いです。
   > 戦争末期の朝鮮は、たしかに苦しい時ではあったでしょう。
   > しかし、日本の内地も同じでした。
   > いや実際は、日本の内地より朝鮮のほうがはるかに恵まれていたのです。
   > なぜなら日本の内地は、アメリカ軍の爆撃を受けて多くの都市が破壊されました。
   > しかし朝鮮は、そうした攻撃を一切受けなかったからです。
   > また、戦争末期の朝鮮の物資欠乏や苦しみでさえも、かつての李朝時代の朝鮮の悲惨さに
   > 比べれば、はるかに恵まれたものでした。
   > また日本の統治がなければ、朝鮮半島は20世紀前半までにロシアか中国の領土と
   > なっていたでしょう。 そして朝鮮民族も、朝鮮文化も消滅していたに違いないのです。
   > 志願兵となった朝鮮人兵士らは、そのことを理解したからこそ、日本人たちと共に
   > 戦地に赴いたのです。 そうした事実を、今の韓国人はほとんど知りません。
   > しかし私は、これは日本と朝鮮が手をたずさえ合って生きた「古き良き時代」といっても
   > いいとさえ思っています。
   >
   [ 画像:朝鮮ホテル(1940年、ソウル) (省略)
   左端の女性は舞踏家・崔承喜
   >
   >
   > 朝鮮のひとり立ちを助けた日本
   >
   > やがて日本が敗戦を迎え、朝鮮から日本人たちがみな去っていったとき、
   > ひとりの人が韓国へ戻ってきました。 彼の名は李承晩(イ・スンマン)。
   > 彼は、それまでハワイにいましたが、アメリカから韓国初代大統領の座を与えられ、
   > 韓国を支配するようになりました。
   > もともと熱烈な反日主義者だった李承晩は、日韓併合時代中、ずっとアメリカに
   > 亡命していましたので、朝鮮における日本統治を体験していません。
   > 彼は日本統治を知らない。
   > その彼が、韓国初代大統領の地位につくと、親日派の人々をすべて追放し、
   > もはや反日でなければ韓国では生きられないようにしました。
   > 家庭でも学校でも職場でも、親日的発言はすべて禁止され、日本の悪口だけが
   > 許されるようになりました。
   > 虚偽と捏造によりゆがめられた歴史観が学校で教え込まれ、
   > 少年少女は、すさまじい反日教育の中で育てられていったたのです。
   > そうやって、今日の韓国の反日主義が形成されました。
   > 北朝鮮の金日成の場合も同様です。 今も北朝鮮、および韓国には言論の自由はありません。
   > そして客観的な歴史教育もないのです。
   > しかし少なくとも日本人は、自分の親や、おじいさんやおばあさんの世代の歴史を
   > きちんと知っておく必要があります。 日本はなぜ朝鮮を統治したのでしょうか。
   > それはごく簡単にいえば、当時の朝鮮は、国家的な破産状態にあったからです。
   > 日本はその朝鮮に、助け舟を出したのです。
   > これはちょうど、生活力を失った家庭に、国が生活保護を適用することにも似ていました。
   > 生活保護法では、その家庭がひとり立ちできるまで、国が保護を加え、援助をしていきます。
   > また職員が生活や仕事に至るまで、事細かに指導していきます。
   > 同様に、かつて日本は朝鮮をひとり立ちできる国家にするために、
   > 朝鮮を統治していったのです。
   > これは、朝鮮と日本との間の国際的合意のもとで行なわれたことでした。
   > また、当時の世界の多くの国々が賛成し、承認したものでした。
   > そして日本は、実際に朝鮮をひとり立ちできるまでに建て直したのです。
   > 恨まれるようなことをやったわけではありません。
   > また、日本が朝鮮を統治したのは、ちょうどある会社が、破産状態にあった別の会社を
   > 吸収合併して建て直すことにも似ていました。
   > いわば日本株式会社が、破産した朝鮮株式会社を吸収合併して建て直したのです。
   > こうした吸収合併の際、日本株式会社は、朝鮮株式会社を経済的に支えるだけでなく、
   > 様々な人材を送り込んで技術や経営の指導にあたります。
   > そうやって会社を建て直していくのです。
   > それと同様のことが、朝鮮の国家再建においても行なわれました。
   > 実際、たとえば朝鮮殖産銀行の頭取として働いていた有賀光豊さんも、ふだんから、
   > 「 朝鮮は、我々がお手伝いして立派な国に育て上げ、そのうえで本来の持ち主に返すべきだ 」
   > という信念で働いていました。 息子の敏彦さんがそう述べています。
   > 朝鮮に経済的な自立をもたらし、やがてひとり立ちできるようになったら、
   > 独立国へ導いていこうと彼は願っていました。
   > これは、当時朝鮮で働いていた多くの日本人たちの共通意識だったのです。
   > 韓国人の李萬甲さんも、日本統治時代を振り返ってこう語っています。
   > 「 私が通っていた高等学校には、上村先生という日本人の先生がいらっしゃって、
   >  立派な方でした。
   >  先生は、韓国人の生徒たちが集まっている場で、よく言ってくださった言葉があります。
   >  それは、
   >  『 君たちが独立するためには経済の力だ 』
   >  という言葉でした 」
   > このように日本人は、朝鮮が力をつけて、やがて独立国家となれるよう、
   > 自立させるために働いていたのです。
   >
   >
   > 真の日韓友好への道
   >
   > もちろん、日本の統治が完全だったというわけではありません。 失策や失政もありました。
   > また日本人の中には悪い人たちもいました。
   > 内地から来たといって威張っていた日本人もいなかったわけではありません。
   > 一方、朝鮮人の中にも悪い人たちもいました。
   > しかし全般的にみれば、当時日本人と朝鮮人とは仲良く共に手を取り合って生きていたので す。
   > もし歴史を虫メガネでみれば、小さな部分には、汚れもあったでしょう。
   > けれども、私たちは全体的な姿にあらわれた良い事柄を決して忘れてはいけないのです。
   > なぜ私は、こうした過去のことを長々と語ってきたのでしょうか。
   > それは、過去について真実を知ることが、私たちの信仰生活にとっても、
   > きわめて大切だからです。
   > 多くの人々が、「日本人は悪者だった」 と言ってきました。 教会でもそれが語られてきました。
   > それを聞かされた私たちも、なんとなくそれを信じ込まされてきました。
   > しかし、上に述べたように、実際にそれを体験した人々の証言によく耳を傾けることが
   > 非常に重要です。
   >
   《以下略》

 こういうのを読むと併合当時の朝鮮人と、今現在の朝鮮人が全く別の生き物に思えてならない。

 今の朝鮮人って、宇宙人とか魔物とか、そういうのに体を乗っ取られているんじゃないのかな?



 こうした植民地認識においては、上記したような植民地支配下の暴力・対立の局面は、
 「例外」「非日常」のこととして軽視されたり、あるいは植民地社会の秩序=平和のために必要な
 「治安維持」行為として正当化されることすら起こり得ます。

 

 ■ 甲午農民戦争 ■

   wikipedia「甲午農民戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/甲午農民戦争 - 1.第一次蜂起

   wikipedia「甲午農民戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/甲午農民戦争 - 3 第二次蜂起


 ■ 義兵戦争 ■

   慶文堂 ひま人日記
   7-3-5 抗日義兵戦争の展開
   http://plaza.rakuten.co.jp/sagaenokeibun/2020/
    
   慶文堂 ひま人日記
   *5 抗日義兵戦争の展開〜私的考察
   http://plaza.rakuten.co.jp/sagaenokeibun/2022/


 ■ 三・一独立運動 ■

   2010/7/6 かつて日本は美しかった
   三・一独立運動の隠された事実
   http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/25817795.html

   2010-08-24 No!自虐史観
   【反論】三・一独立運動の真実
   http://ameblo.jp/hironk2005/entry-10627540852.html


 ■ 間島虐殺 ■

   wikipedia「間島事件」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/間島事件

   【満州国の治安】もひとつ間島地区の例
   http://www.asyura2.com/0601/asia4/msg/538.html
    
   柴野貞夫時事問題研究会
   《間島大討伐》は、民族抹殺を狙った極悪な殺人犯罪
   http://www.shibano-jijiken.com/SEKAI O MIRU SEKAI NO SHINBUN 197.html


 ■ 満州抗日戦争 ■

   満州事変は悪ではない 〜ぎりぎりの中の決断〜
   http://www.geocities.jp/vivelejapon1945/mansyu.html

   wikipedia「抗日パルチザン」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/抗日パルチザン - 2満州の抗日パルチザン


 ■ 関東大震災時の朝鮮人虐殺 ■

   2011/06/17 依存症の独り言
   関東大震災における朝鮮人大虐殺のウソを暴く
   http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2011/06/post.html

   2010年08月03日 関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実
   http://jack4afric.exblog.jp/14321006/


 はい、どれもこれも犯罪が取り締まられただけですね。

 これが日帝の悪逆卑劣な植民地弾圧だというなら、今現在、日本国内で犯罪を取り締まられて捕ま っている犯罪者共も可哀想な被差別者たちということになりますよ。 いいんですか?



 そして、それとは対照的に、支配する側と支配される側の協力・合意など、調和の局面ばかりが
 植民地の「日常」として強調されることになります。
 しかし、植民地支配下の朝鮮社会における「日常」を、そのように「非日常」と単純に区別して、
 しかもそれが平和であり近代化を享受していた「日常」であったなどとすることは
 本当にできるのでしょうか?
 そもそも、朝鮮半島の人々の生活は「平和」であったということはできるのでしょうか?


 150年にわたる朝鮮半島の「非平和」

 まずは、朝鮮半島の近現代史を見てみましょう。
 1860〜70年代以降、緊張の濃淡はあるにせよ、朝鮮半島は一貫して「平和」から遠ざけられた
 政治状態(「非平和」)にあります。
 他国の侵略・軍事介入や植民地支配、民族内対立の深刻化などによって、朝鮮の政治は
 軍事的に揺さぶられる緊張状態であり続けているということです。
 朝鮮社会の人々の「日常」も、こうした政治的緊張から決して無縁なものとはいえません。

 

 1860〜70年代以前も朝鮮半島は一貫して「平和」から遠ざけられた政治状態(「非平和」)だったんで すけどね。

   wikipedia「朝鮮の歴史」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮の歴史 - 4.中世の朝鮮半島

   > 高麗
   >
   >   918年 後高句麗の豪族の王建が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国する。← 戦争
   >
   >   933年 後唐の冊封を受ける。
   >
   >   935年 新羅の敬順王、高麗に国を譲渡し、ここに新羅滅亡す。← 戦争
   >
   >   936年 後百済を滅ぼし朝鮮半島統一。 ← 戦争
   >
   >   976年 田柴科制の創設。
   >
   >  1010年 契丹の侵入を撃退。← 戦争
   >
   >  1018年 契丹の再侵入。 姜邯賛の活躍により契丹軍を殲滅(亀州大捷)。← 戦争
   >
   >  1033年 高麗の長城の建設開始。
   >
   >  1095年 李資義の乱。← クーデター
   >
   >  1126年 李資謙の乱。 金に服属。← クーデター
   >
   >  1135年 妙清の乱。← クーデター
   >
   >  1170年 庚寅の乱。 以後武人政権が続く。← クーデター
   >
   >  1196年 崔忠献によるクーデター。 崔氏政権の始まり。← クーデター
   >
   >  1232年 モンゴル帝国の侵略始まる(→モンゴルの高麗侵攻)。← 戦争
   >
   >  1259年 高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、モンゴル帝国(元)の属国化。
   >
   >  1260年 忠烈王は、大ハーンに即位したフビライの娘婿となる。
   >       これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)は
   >       モンゴル貴族や時には皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、
   >       父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。
   >       高麗王の母は、みなモンゴル人となり、4代の高麗王は元皇帝の娘婿となる。
   >
   >  1270年-1273年 武人派の軍隊三別抄の反乱。← クーデター
   >
   >  1274年・1281年 忠烈王の要請に応えた元の協力を得て
   >            2度の日本侵攻(元寇)への出兵により
   >            甚大な被害を受ける[29][30]。← 戦争
   >
   >  1289年 元の征東行省が常設され、元朝の領土化。
   >
   >  1350年 この頃より倭寇に悩まされるようになる(「前期倭寇」〜15世紀前半)。
   >
   >  1351年 恭愍王即位(〜1374年)。
   >
   >  1354年 共愍王による反元運動が始まる。
   >
   >  1356年 元軍が高麗から撤退(双城総管府を回復)。
   >
   >  1365年 辛?による改革政治(〜71)。
   >
   >  1374年 恭愍王が暗殺される。 ?王が即位(〜88)。← 暗殺事件
   >
   >  1388年 親明派の武将李成桂(女真族ともいわれる[12])がクーデターを起こし
   >       実権者になる(威化島回軍)。← クーデター
   >
   >  1391年 科田法の制定。
   >
   >  1392年 鄭夢周が暗殺される。← 暗殺事件
   >
   《以下略》


   wikipedia「朝鮮の歴史」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮の歴史 - 5.近世の朝鮮半島

   > 朝鮮国時代(朝鮮王朝・李氏朝鮮)
   >
   >  1392年 李成桂(女真族ともいわれる[12])が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、
   >       高麗王に即位。 明より権知高麗国事として認められる。
   >
   >  1393年 李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる。
   >       明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の2案から選んでもらうという
   >       形式的手順を踏んだ。
   >
   >  1398年 第一次王子の乱。← クーデター
   >
   >  1400年 第二次王子の乱。← クーデター
   >
   >  1404年 室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。
   >
   >  1418年 太宗が譲位して、世宗が即位(〜1450)。
   >
   >  1419年 倭寇征伐を理由として対馬に遠征する(応永の外寇)。← 戦争
   >
   >  1420年 集賢殿設置。
   >
   >  1432年 四郡六鎮設置。
   >
   >  1443年 訓民正音の制定(1446年公布)。
   >
   >  1453年 癸酉靖難。 首陽大君(のちの第7代国王・世祖)による政権奪取。← クーデター
   >
   >  1456年 丙子冕獄(死六臣が処刑される)。
   >
   >  1466年 職田法の制定。
   >
   >  1467年 李施愛の乱。← クーデター
   >
   >  1468年 世祖が崩御し睿宗即位(1469年に崩御)。
   >       南怡の謀叛事件が起こる。← クーデター

   >
   >  1474年 成宗の治世に『経国大典』頒布(1485年に施行)。
   >
   >  1498年 士林派に対する弾圧が始まる(戊午士禍)。← 粛清事件
   >
   >  1504年 甲子士禍が起こる。← 粛清事件
   >
   >  1506年 燕山君がクーデターにより失脚し、中宗が即位(中宗反正)。← クーデター
   >
   >  1510年 在朝日本人の貿易活動等を統制したため、
   >       3港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる(三浦の乱)。← クーデター
   >
   >  1519年 己卯士禍が起こる(趙光祖の改革政治が挫折)。← 粛清事件
   >
   >  1545年 仁宗崩御(在位1544年-1545年)。 明宗即位。 乙巳士禍が起こる。← 粛清事件
   >
   >  1555年 備辺司設置。
   >
   >  1559年-1562年 林巨正の乱。← クーデター
   >
   >  1567年 宣祖即位。 勲旧派の終焉。 以後、士林派同士の対立が続く。
   >
   >  1575年 東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)。 陶山書院建立。
   >
   >  1589年 鄭汝立の乱。← クーデター
   >
   >  1592年-1598年 文禄・慶長の役。 朝鮮では壬辰倭乱と呼ぶ。← 戦争
   >
   >  1607年 朝鮮より回答兼刷還使が来日(→朝鮮通信使を参照のこと)。
   >
   >  1608年 京幾道で大同法を実施。 以後、約100年をかけて全国に拡大。
   >
   >  1609年 李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、
   >       貿易が再開される。
   >
   >  1613年 七庶の獄。← 粛清事件
   >
   >  1615年 申景禧の獄。← 粛清事件
   >
   >  1616年 光海君の明・金中立外交。
   >
   >  1619年 サルフの戦い。← 戦争
   >
   >  1623年 仁祖反正で光海君廃位。
   >
   >  1624年 李?の乱。← クーデター
   >
   >  1627年 丁卯胡乱。← 戦争
   >
   >  1636年 清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)。
   >       朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城。← 戦争
   >
   >  1637年 仁祖降伏(三田渡の降伏)。
   >       明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)。
   >
   >  1654年、1658年 羅禅征伐。← 戦争
   >
   >  1660年 己亥礼訟。
   >
   >  1674年 粛宗即位(在〜1720年)甲寅礼訟により、南人が政権を握る。
   >
   >  1680年 庚申換局。
   >
   >  1683年 西人が老論と少論に分裂。
   >
   >  1689年 己巳換局。
   >
   >  1694年 粛宗の治世に甲戌の獄起こる。← 粛清事件
   >
   >  1701年 巫蠱の獄(張禧嬪が賜死)。← 粛清事件
   >
   >  1712年 白頭山に定界碑を建立。
   >
   >  1716年 丙申処分。
   >
   >  1721年-1722年 景宗の治世に、壬寅の獄起こる(辛壬士禍)。← 粛清事件
   >
   >  1724年 英祖即位(在〜1776)。
   >
   >  1728年 李麟佐の乱。← クーデター
   >
   >  1750年 均役法を実施。
   >
   >  1762年 英祖の治世に荘献世子事件起こる。
   >       老論に対立していた荘献世子が政界の陰謀(デマ)により、
   >       王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する。← 粛清事件
   >
   >  1776年 正祖即位(〜1800)。 奎章閣設置。
   >
   >  1784年 李承薫が天主教の書籍を持ち込む。
   >
   >  1791年 辛亥邪獄。← 宗教弾圧
   >
   >  1796年 正祖による水原華城(世界遺産)建設。 朝鮮後半の全盛期。
   >
   >  1801年 辛酉邪獄(カトリック弾圧)。← 宗教弾圧
   >
   >  1804年 純祖の治世、安東金氏による権勢政治( - 1863年)。士林派の終焉。
   >
   >  1811年 洪景来の乱(地方差別に反発した一揆)。← クーデター
   >
   >  1862年 壬戌民乱 ← クーデター
   >
   >  1863年 哲宗崩御。高宗即位。大院君政権の成立。
   >
   >  1866年 ジェネラル・シャーマン号事件。← 他国の民間人虐殺
   >       キリスト教徒の弾圧(丙寅教獄)。← 宗教弾圧
   >        フランスは抗議のため、軍艦・兵士を派遣し、江華島の一部を占拠(丙寅洋擾)。
   >
   >  1868年 オッペルト事件。
   >
   《以下、1870年以降に付き省略》

 なにこれひどい。

 日本の歴史でも朝廷やら幕府やらが権力闘争や戦争に明け暮れていたような印象があるけど、そう いう酷さに於いては朝鮮半島の足元にも及ばないな。

 これを

   > 1860〜70年代以降、緊張の濃淡はあるにせよ、
   > 朝鮮半島は一貫して「平和」から遠ざけられた政治状態(「非平和」)にあります。

 というからには、サヨクの目には1860〜70年代以前が平和な時代だったと映るんだ。

 すごいね。



 朝鮮半島の150年にわたる「非平和」は、少なくとも三つの次元から捉えることができると思われま す。
 第一は、日本と朝鮮半島との関係によってもたらされる「非平和」です。
 江華島事件、日清戦争における日本軍と東学農民軍との交戦をはじめ、
 日露戦争以降は、植民地期を通じて日本軍警と抗日運動との武力衝突が行われ続けました。
 そして、抗日運動を闘っているわけではない多くの人々の日常も、
 「平時」と「戦時」を分かつことが困難な軍事・警察支配を受け続けることになったのです(後述)。
 さらに、戦後も日本はアメリカとともに朝鮮半島の軍事的緊張状態の持続に加担し続けています。

 

 飲み掛けていたコーヒーを噴いたわ。

 日本のサヨクって、本気で朝鮮戦争が日本の所為だと思っているのか。

   wikipedia「朝鮮戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮戦争

   > 朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、
   > 成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、
   > 朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争[2][3]。


   wikipedia「朝鮮戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮戦争 - 1.概説

   > 1945年8月15日、第二次世界大戦において日本は連合国に降伏したが、
   > その時点で日本が併合していた朝鮮半島北部に
   > 連合国の1国のソ連軍(赤軍)が侵攻中であり、日本の降伏後も進軍を続けていた。
   > 同じく連合国の1国で反共主義を掲げていたアメリカは、
   > ソ連の急速な進軍で朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、
   > ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。
   > ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、
   > 南部をアメリカ軍に分割占領された。


   wikipedia「朝鮮戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮戦争 - 2.戦争に至るまでの経緯

   > 終戦時の朝鮮の政治状況
   >
   > 朝鮮半島は朝鮮総督府の下、独立準備委員を設立し、朝鮮半島の速やかな独立を計ったが、
   > その後進駐してきたアメリカやソ連、イギリスを中心とする連合国軍により、
   > その行動は「ポツダム宣言に違反」するとされ、独立準備委員会は解散させられた。
   >
   > 1945年8月、ソ連軍の朝鮮半島侵攻という事態に直面し、
   > アメリカはソ連に38度線での分割占領案を提示した。
   > この境界線はアメリカ陸軍のディーン・ラスクらによって30分間で策定されたものであり[4]、
   > アメリカ軍の占領域に首都ソウルが含まれる事も考慮されていた[5][6]。
   > 8月14日に通告されたポツダム宣言を日本は受諾。
   > 9月2日、日本は連合国に正式に降伏し、第二次世界大戦は終結。
   > 同宣言により日本は朝鮮半島の統治権を放棄することとなった。
   > ソ連軍はアメリカによる朝鮮半島分割占領案を8月16日に受諾し、
   > 日本軍にはこの合意に従って降伏するよう命令が行われた。
   >
   《以下略》


   2013年11月 Minade Mamoru Nowar 朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書
   殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪
   http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/1222ChoosenWar.html
   > T.朝鮮戦争の推移
   > 北朝鮮軍の韓国奇襲攻撃
   >
   > 1950年6月25日早朝、北緯38度線で、突如、轟音がとどろいた。
   > 北朝鮮軍が韓国に向けて砲撃を開始したのである。砲撃が終わると、
   > 300両の最新鋭のソ連製戦車部隊を先頭に、10万人を超える勇猛果敢な金日成の北朝鮮軍が
   > 北緯38度線を突破して韓国に雪崩れ込んだ。
   >
   > 北朝鮮のピョンヤン放送は、
   > 「 我々は、アメリカ帝国主義の傀儡、李承晩政権から、韓国人民を解放する 」
   > と、世界中に、高らかに告げた。
   >
   《中略》
   >
   > この電光石火の北朝鮮の奇襲攻撃に対し、李承晩の韓国はなすすべがなかった。
   >
   > 対日憎悪感の権化・李承晩は、いかに日本に報復するかに没頭しており、
   > 北朝鮮が侵攻するなどとは、まったく考えていなかった。
   >
   > 勘違い、誤報、意図的な偽情報が韓国中を飛びかった。
   >
   > 何が事実なのか誰も分からなかった。
   > さらに、驚くべきことに、この北朝鮮奇襲攻撃の事実が、大統領の李承晩に知らされたのは、
   > 砲撃開始・戦車隊の北緯38度線突破から数時間たった後であった。
   >
   > 対日報復の鬼・李承晩の韓国は、金日成の北朝鮮に対する警戒心はまったくなかった。
   > それほど、金日成を信用していたのである。
   >
   >
   > 2.北朝鮮軍の快進撃
   >
   > 無知・無能・無策・無責任な李承晩を筆頭に、当時の韓国政府が、うろたえて、
   > 右往左往している間に、北朝鮮軍は恐ろしいスピードで南下してきた。
   >
   > 開城(ケソン)はたった数時間で陥落。
   > その60km南の首都ソウルの防衛ラインは、次々と、楽々に突破され、
   > 韓国軍はひたすら敗走を続けた。
   >
   > このようなワンサイドな戦いとなったのは、奇襲にもよるが、軍事力でも、
   > 北朝鮮軍と韓国軍とでは、圧倒的な差があったからである。
   >
   > 韓国軍は、総兵力10万人。 戦車はゼロ。 大砲もわずか91門。
   >
   > これに対して、北朝鮮軍は、総兵力20万人、ソ連製最新鋭T−34戦車など300両、
   > 大砲も最新鋭のSU−76M自走砲など552門と、圧倒的に優勢な戦力であった。
   >
   > 北朝鮮の主力戦車は第2次世界大戦のソ連の傑作、最新鋭のT−34戦車である。
   > 韓国軍の火砲は、T−34戦車の分厚い装甲を撃ち抜くことができなかった。
   > 陸上の戦闘を制するのは、火力と機動力である。 つまり、重火器と戦車である。
   >
   > この2つにおいて、北朝鮮軍は韓国軍を圧倒した。
   > 加えて、北朝鮮軍は、この日に備えて、猛訓練を重ねていた。
   > 一方の李承晩の韓国軍は、戦争が起こるなど夢にも思っていなかった。
   > つまり、練度と戦意においても、北朝鮮と韓国では天地の差があった。
   >
   > 1950年6月27日、トルーマン米国大統領が主導し、国連安保理が開催され、
   > 北朝鮮非難決議が採択された。
   >
   > しかし、その間にも、北朝鮮軍の侵攻はつづいた。
   > 北朝鮮軍のT−34戦車が戦場に現れると、韓国軍は、一戦も交わさず、ひたすら逃げた。
   >
   > 戦況は絶望的だった。 重戦車と軽歩兵の戦いは、針でバターを刺すようなもの。
   > 李承晩の韓国政府はいち早くソウルを捨て、33km南方の水原に首都を移した。
   >
   >
   > 3.米国の朝鮮戦争参戦
   >
   > トルーマン大統領は、矢継ぎ早に命令を発した。
   > 在日米軍を釜山(プサン)に派遣し、海軍を韓国海域に出動させた。
   > さらに、台湾を中国から守るため、第7艦隊を極東に派遣した。
   > そして、この作戦のすべての指揮権を、東京にいたマッカーサー元帥に与えた。
   > トルーマン大統領は、前任のルーズベルト大統領とは違って、反共意識が強く、
   > 決断も行動も迅速だった。
   >
   > マッカーサー元帥は、最年少で少将に昇進、50才で米国陸軍参謀総長になる。
   > 太平洋戦争では日本軍と戦い勝利した。
   > 日本敗戦後は、SCAP/GHQの最高司令官として日本占領業務にあたっていた。
   >
   > 極東で突然勃発した事件の解決は、この70歳の老将軍に委ねられた。
   >
   > 1950年6月28日、韓国軍の将兵とソウル市民が、首都ソウルを脱出し、漢江の橋に殺到した。
   > このとき、韓国軍は北朝鮮軍の追撃を防ぐため橋を爆破した。
   >
   > ところが、ソウル市民の渡橋は、まだ終わっておらず、数百人が犠牲になった。
   > さらに、漢江の橋が爆破されたため、多くの市民がソウルに取り残された。
   > この日の夕方、北朝鮮軍はソウルを完全制圧した。
   >
   《中略》
   >
   > 4.韓国政府降伏で戦争終了の事態に
   >
   > 6月29日、マッカーサー元帥は東京から朝鮮半島に飛んだ。
   > 自分の目で、状況を確認するためである。
   > 前線を視察したマッカーサー元帥は、韓国軍主導では、勝ち目は100%ないと判断した。
   >
   > そして、直ちに、トルーマン大統領に米国地上軍の派遣を要請した。
   > ところが、スターリンのソ連が、
   > 「 朝鮮の内政問題に外国が介入すべきではない 」
   > と主張したため、トルーマン大統領は米地上軍の派遣を躊躇した。
   >
   > いずれ、国連軍は出動するだろうが、それまで韓国はもたない。
   > マッカーサー元帥はそう確信した。
   >
   > すでに、首都ソウルが占領されている。
   > マッカーサー元帥は、トルーマン大統領に爆撃の許可を申請し、
   > 回答を待たず爆撃を敢行した。
   >
   > もし、当時、米軍の最高司令官がマッカーサー元帥でなかったら、
   > 1950年8月末に北朝鮮軍が朝鮮全土を制圧し、韓国政府が降伏して、
   > 朝鮮戦争が終わっていた可能性が高い。
   >
   > 6月30日、北朝鮮軍は、漢江を渡河し、南進を再開した。
   > 朝鮮半島最南端の釜山(プサン)までわずか330km。 「東京〜大阪」の距離である。
   >
   > 釜山が陥落すれば、戦争は終わる。
   > 北朝鮮軍は、韓国の臨時首都、水原に猛攻撃を加えた。
   > 韓国軍の指揮系統・連絡網はズタズタになり、水原の陥落は時間の問題だった。
   > マッカーサー元帥は、再びトルーマン大統領に米地上軍投入を迫り、ついに認めさせた。
   >
   > 7月1日、臨時首都の水原は陥落。 李承晩は釜山に逃げ込んだ。
   >
   > このとき、敗走する李承晩は、自国を守れず遁走しながら、武器を持たない一般市民を、
   > 共産党関係者だと決めつけ、20万人以上の一般市民を虐殺した。
   > 武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨てて、ひたすら逃げ隠れした李承晩は、
   > 武器を持たない自国の一般市民を、平気で虐殺したのである。
   > 李承晩は本当に悪い奴であった。
   >
   《中略》
   >
   > 同日、7月1日、在日米軍が釜山に上陸した。
   > 同時に、沖縄基地から爆撃機B29が発進、北朝鮮軍を爆撃した。
   >
   > 7月2日、在日米軍は北上して大田(テジョン)に到着した。
   > 大田は、ソウルと釜山をむすぶ要衝である。
   > 在日米軍はここに強固な防衛線を築き、北朝鮮軍を食い止める作戦だった。
   >
   > 7月3日、漢江の橋の修復が終わると、北朝鮮軍の戦車が漢江南岸に殺到した。
   > 韓国の防衛線は一瞬にして崩壊した。
   > 小火器で重戦車に挑むのは、どだい、ムリな話なのである。
   >
   > ところで、なぜ韓国軍は戦車を持っていなかったのか?
   > じつは、1年後に、米国からM26戦車を受領する予定だった。
   > 北朝鮮の奇襲が1年後であったならば、状況は変わっていたかもしれない。
   >
   > 7月7日、米国を中心に、16ヵ国が参加して国連軍が編成された。
   > しかし、こうしている間にも、北朝鮮軍の南進は続いていた。
   > 在日米軍は、大田から北上を試みたが失敗、逆に押し返されてしまう。
   > その後、国連軍も合流したが、7月中頃までに、兵数は半減、大田の維持すら困難になった。
   > そこで、韓国政府は大邱に逃げ込んだ。
   >
   > 7月20日、北朝鮮軍の猛攻で大田が陥落した。
   >
   > さらに、8月末までに、国連軍は、大邱と釜山、朝鮮半島南部に押し込まれた。
   > このままでは、全軍が日本海に追い落とされる。
   >
   > しかし、背水の陣となった国連軍は必死だった。 米軍の将軍たちはこう宣言した。
   > 「 朝鮮半島からの撤退はありえない。 我々は最後まで戦う 」
   >
   《中略》
   >
   > 5.マッカーサー元帥の反撃
   >
   > 一方、北朝鮮軍にもアキレス腱があった。 快進撃の結果、兵站線が伸びきっていた。
   > ピョンヤンから大邱まで、直線距離にして400km。
   >
   > 兵站とは、戦闘部隊の後方支援で、燃料・弾薬・食料の補給、兵員や兵器の補充を行う。
   > 兵站線が長いほど補給は難しくなり、兵站線を途中で絶たれる可能性もある。
   > 当然、兵站線を絶たれた先には補給は届かない。 兵站線は軍隊の血管なのだ。
   >
   > 北朝鮮軍は優勢だったが、国連軍に対する最後の一撃が打ち込めなかった。
   >
   > 一方、国連軍は、防戦一方で、反撃する余力はなかった。
   >
   > そこで、マッカーサー元帥は、戦況を一転させる奇襲を断行する。
   >
   > 兵站線の真ん中、仁川に強襲上陸し、北朝鮮軍を南北から挟撃するのである。
   > 単純明快、鮮やかな作戦だが、包囲殲滅される可能性もある。
   > 奇策、どちらかというとバクチに近い。
   > これが歴史に残る 「仁川上陸作戦(クロマイト作戦)」 である。
   >
   > 9月15日、国連・韓国軍は仁川に奇襲上陸した。
   > 危険な敵前上陸を任務とする米海兵隊を先頭に、7万人が上陸に成功した。
   > このとき、M26重戦車をはじめ、重火器も大量に送り込まれた。
   >
   > 北朝鮮軍は、国連・韓国軍に挟撃され、算を乱して逃走し始めた。 戦局は一変した。
   >
   >
   > 6.中国軍参戦を招いた李承晩の北進決定
   >
   > 9月28日、国連・韓国軍はソウルを奪還した。
   > 翌日、韓国政府もソウルに戻った。
   > かねてより、南北統一をもくろんでいた李承晩にとって、棚からぼた餅のいチャンスだった。
   >
   > 無知・無能・無策・無責任な、対日憎悪感の権化・対日報復の鬼・李承晩は、
   > はやる気持ちを抑えきれず、韓国軍単独で北緯38度線を突破させた。
   > 韓国軍は北進した。 続いて、国連軍も北進した。
   >
   > 危機感をつのらせた毛沢東の中国は、ここで朝鮮戦争参戦を決定する。
   > 志願兵による義勇軍との名目で、100万人もの正規軍兵力を投入した。
   >
   > 10月20日、中国軍100万人参戦について何も知らない国連・韓国軍は、
   > 北朝鮮の平壌を占領した。 さらに、逃げる北朝鮮軍を追った。
   >
   > 先鋒の韓国軍は、中国との国境、鴨緑江に達した。
   > ここで、中国軍の猛反撃が始まった。
   > 100万人による圧倒的な人海戦術、加えるに、名将・彭徳懐将軍が指揮し、
   > ゲリラ戦に熟達した中国正規軍が国連・韓国軍に襲いかかった。
   >
   > 中国軍は、国連・韓国軍が、まったく思いもつかなかった、冬山を夜間に踏破して、
   > 国連・韓国軍の背後の高地に陣取り、突然、背後から国連・韓国軍に襲いかかった。
   > 中国軍の夜間山地移動を米軍の偵察機は発見することができなかった。
   >
   > 突然、大地からわき出るような無数の中国兵に襲われて、米国軍の兵士は
   > パニックに陥った。 凄まじい恐怖に駆られた。
   >
   > 国連・韓国軍は北朝鮮各地で大敗北を喫し、敗走に次ぐ敗走で、
   > 北緯38度線の南へ逃げ帰った。
   > これがトラウマになり、以後、米国軍の現地指揮官たちは、
   > 中国軍とは戦いたくないと考えるようになった。
   >
   > 中国軍は、津波のように国連・韓国軍を呑み込んだ。
   >
   > 12月5日には、中国軍は平壌を奪回した。 さらに、ソウルも再占領した。
   >
   > あまりにもの大敗北に怒り狂ったマッカーサー元帥は、中国に原爆を投下せよと
   > トルーマン大統領に迫ったが、あっさり、国連軍最高司令官と日本占領軍最高司令官を
   > 解任されてしまう。
   >
   >
   > 7.北朝鮮軍、韓国軍、中国軍と国連軍の人的損害
   >
   > 北朝鮮軍の、戦死者数、約52万人、負傷者数、約41万人といわれる。
   >
   > 韓国軍の、戦死者数・負傷者数は、合わせて約99万人といわれる。
   >
   > 中国軍の、戦死者数は18万4,000人、負傷者数は71万5,900人、
   > 捕虜になった者は2万5,600人といわれている。
   >
   > 国連軍の、戦死者数は3万6,813名、負傷者数は11万4,816名、
   > 行方不明者は6,198名、捕虜になった者は4,439名といわれている。
   >
   >
   > 8.一般市民、約400万人が死亡 − 金日成と李承晩の戦争犯罪
   >
   > 朝鮮戦争の死亡者の数は、韓国約150万人、北朝鮮約250万人、
   > 南北朝鮮合わせて約400万人といわれている。 総人口の20%にあたる。
   > つまり、国民の5人に1人が死亡したことになる。
   >
   > 第2次世界大戦の日本の死亡者は約300万人である。 総人口の4%である。
   > 朝鮮戦争は、南北殺し合いの、凄まじい戦争であった。
   >
   《以下略》

 はい、日本は完全無欠に関係がありません。 もし、関係があるとすれば大東亜戦争に負けたことだ けです。


 日本は朝鮮半島情勢が危機になるたびに官民一体で、「朝鮮有事」という「例外状況」を演出しては
 「有事対応」の国家主義体制・日米安保体制を強化する循環を繰り返していて、
 2010年12月初頭の朝鮮半島危機の際にも、管直人内閣が最初にとった行動は
 朝鮮学校の「無償化」プロセスの停止でした。

 

 元々、一条校ではない朝鮮学校が無償化の対象になることがおかしい。

 一条校ではない朝鮮学校を無償化にするのであれば、各種カルチャースクールや自動車教習所等 も無償化の対象になるべきである、との暴論がまかり通ってしまう。

 だいいち、

   朝鮮学校の「無償化」プロセスを停止

 したら、何がどうして

   「有事対応」の国家主義体制・日米安保体制の強化

 に繋がるんだよ。 何処にも因果関係がないじゃないか。

 意味が不明にも程がある。



 第二に、朝鮮半島をめぐる国際関係によってもたらされる「非平和」です。
 日清・日露戦争は朝鮮支配をめぐる国際紛争でしたが、その前から朝鮮半島には
 欧米諸国や日本の軍事力を背景とした勢力伸長と、中国を中心とした伝統的な
 国際関係(朝貢=冊封関係)の維持をめぐるせめぎあいが始まっていました。
 朝鮮政府が積極的に推進したとされる朝鮮「中立化」構想も、
 日清露や列強の勢力均衡の上で構想されうるものでした。
 帝国主義諸国の作り出す「秩序」には、各国の利害を反映した妥協の産物という側面と、
 列強が現地の人々の意向を考慮することなく、頭ごなしに勝手に「勢力圏」を決めあうという
 領土分割の側面があり、日清・日露戦争の趨勢とともに、
 欧米列強は相互の「勢力圏」を決めあい、日本の朝鮮支配(植民地化)を承認していきました。

 

 自立できない子供に保護者が付くのは当然のことです。

 世界征服すらしかねない勢いで領土を広げる強豪.国ロシアが朝鮮半島をその手に収めれば、広大 な不凍港を与えることになります。 しかし、当の朝鮮半島はこの有り様でした。

   wikipedia「韓国併合」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/韓国併合 - 2.概要 - 4.光武改革

   > イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、
   > 光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。
   >
   >  朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、
   >  新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。
   >  官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、
   >  ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という
   >  最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。
   >  政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそ
   >  それより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、
   >  勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。
   >  このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、
   >  これは困難きわまりなかった。
   >  名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。
   >  公正な官吏の規範は存在しない。
   >  日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。
   >  盗む側と盗まれる側である。
   >  そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。
   >  「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、
   >  どの職位も売買の対象となっていた。
   >
   >  イザベラ・バード, 『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年、pp.343 f

 親の過干渉を嫌がる子供は少なくありませんが、「 お菓子を上げるよ 」 と言われてホイホイ付いて 行く様なバカガキンチョが親から過干渉されるのが当然であるように、長年の属国が身に沁みていて、 どうしたって主権国家になれそうになかった当時の朝鮮が他国の干渉を受けるのは当然です。

   過干渉する日本が悪い

 ではなく、

   過干渉されなければ他国に攻め滅ぼされかねなかった当時を恥る

 べきです。



 とりわけ、朝鮮半島に対するアメリカの影響力は大きなものがあります。
 桂-タフト協定(1905年)によって、アメリカはいち早く積極的に日本の朝鮮保護国化を認め、
 ウィルソン大統領が民族自決を主張した時においてすら、
 自国から遠く離れた朝鮮の独立承認に関しては一貫して否定的でした。
 アメリカは一貫して朝鮮を自治能力なき「不完全国家」扱いし、
 朝鮮民族の切実な願いを軽視したのです。

 

 日本が併合するまでこんな有り様だった朝鮮半島の何処をどう評価したら「完全国家」扱いができる んだよ。

   正しい日本の歴史 - 「 日韓併合前、韓国の本当の姿 」

   前書きにかえて
   http://rekisi.amjt.net/?p=7172

   イザべラ・バードの旅行記
   http://rekisi.amjt.net/?p=3204
   > 『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』 イザベラ ・ L ・ バード
   >
   > 英国人女性旅行家 イザべラ・バードが朝鮮を訪れたのは、1894年、62歳の時である。
   > 以後3年余、Bird は朝鮮各地を旅した。
   > 開国間もない朝鮮に色濃く残る伝統的風土・民俗・文化等々、
   > バードの眼に映った朝鮮の素顔を忠実に伝える名紀行。
   >
   > その一部を引用させていただきます。
   >
   > ・ 貨幣制度が(ほとんど)無い。
   > ・ ソウルは世界有数の汚く悪臭のする都市。
   > ・ 一般民衆の住む場所は藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えない。
   > ・ 道はとにかく悪い。
   >
   >
   >  イザべラ ・ バードが見た、ソウル
   >
   >  都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。
   >  礼節上2階建ての家は建てられず
   >  (※ 清の使者を見下ろすことになるので二階建て建物は禁止 )、
   >  したがって推定25万人の住民は主に迷路のような道の 「地べた」 で暮らしている。
   >
   >
   [ 画像:省略
   韓併合前のソウル
   >
   >
   >  路地の多くは荷物を積んだ牛同士が擦れ違えず、
   >  荷牛と人間ならかろうじて擦れ違える程度の幅しかない。
   >  おまけに、その幅は家々から出た糞、尿の汚物を受ける穴か溝で狭められている。
   >
   >  酷い悪臭のするその穴や溝の横に好んで集まるのが、
   >  土ぼこりにまみれた半裸の子供たちと、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、
   >  汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしている。
   >
   >  家は荒壁のままで、且つ天井というものも無く、蜘蛛の巣だらけ、蠅だらけ、不潔だらけ、
   >  ビンデーと称える南京虫は沢山居る。 その外にも虫など這い回る。
   >  そうして勝手次第に所構わず唾や痰などを吐く。 なんとヒドいでは無いか。
   >  それは夏になると風通しの悪い上に、かまどの熱気もあり、
   >  決して内に居ることは出来ない位で、朝鮮の家から防寒の一時を除いたら実にゼロである。
   >  かく朝鮮の家は防寒が唯一の目的であって、別に夜具など殆ど無い位であるから、
   >  燃料は彼らの第一の身代で、木が無いから蘆や茅などを燃料とし、之を積み重ねて
   >  互いにその多きを誇り、燃料の欠乏は飯米の欠乏よりも恐れて居る有様である。
   >
   >  ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。
   >  蓋のない広い水路を黒くよどんだ水が、かつては砂利だった川床に堆積した
   >  排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。
   >  水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。
   >
   >  周囲の山々は松の木が点在しているものの、大部分は緑がなく、
   >  黒い不毛地のうねりとなってそびえている。
   >
   >  ソウルには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。
   >  他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。
   >  古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため
   >  寺院もない、結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、堂々とした
   >  宗教建築物の与える迫力がここにはない。
   >
   >
   [ 画像:省略
   日韓併合前の荒れ果てた名刹、仏国寺
   >
   >
   >  朝鮮の災いの元のひとつに、この両班つまり貴族という特権階級の存在がある。
   >  両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、
   >  身内に生活を支えてもらうのは恥じとはならず、妻がこっそり よその縫い物や洗濯をして
   >  生活を支えている場合も少なくない。
   >  両班は自分では何も持たない。 自分のキセルですらである。
   >  両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。
   >  慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、大勢のお供をかき集められるだけ
   >  かき集め引き連れていくことになっている。
   >  本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは
   >  究極の無能さ加減である。
   >  従者たちは近くの住民を脅して、飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
   >
   >  当時はひとつの道に44人の地方行政官がおり、
   >  そのそれぞれに平均400人の部下がついていた。
   >  部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、
   >  その食事代だけをとってみても、ひとり月に2ドル、年に総額で39万2,400ドルかかる。
   >  総員1万7,600人のこの大集団は 『生活給』 をもらわず、究極的にくいものにされる以外
   >  なんの権利も特典もない農民から独自に 『搾取』 するのである。


   「世界一の糞の国」と称されていた韓国
   http://rekisi.amjt.net/?p=3208
   > 朝鮮がまだシナの属国でしかなかった日清戦争前、
   > 朝鮮の管理・指導を行っていた 「朝鮮の支配者」 清国の袁世凱(えんせいがい)に言わせると、
   > 「朝鮮は、万国の最貧国」であった。
   >
   >
   >  「世界一の糞(くそ)の国」と称されていた、併合前の韓国
   >
   >  韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花(糞)が
   >  場所も嫌わず狼藉と咲き乱れて居て、足の踏み場もなく、
   >  潔癖者は一見其不潔と臭気に驚くのだ。
   >  現にこの国の中央都会の地たる京城(現在のソウル)の如き、
   >  一名を真の帝都と綽名されて居る程で、至る所人糞あるいは牛馬糞を見ざる無で、
   >  粉々たる臭気は鼻を襲い眼を顰める者とてない。
   >  そこで京城市内を流れて居る川の如き各戸より、排泄する糞尿を混じ、
   >  この水は一種の黄色を帯び、ドロドロになって居るなど、 実に眼もあてられぬ光景で
   >  洗濯などに使って居る。 なんと鼻持ちならぬ話ではないか。
   >  毎年夏になると伝染病が流行し、その伝染病に罹る患者の多くは韓人で、
   >  非常なる大流行を極め何千人を驚かすは珍しくない。
   >
   >  ( 『漢 城の風雪と名士 』 細井肇 著より引用)
   >
   >
   >  日韓併合前の韓国の風景
   >
   >  李朝末期の韓国は、政治が乱れに乱れていた。
   >  宮廷は国民の大多数が生活苦に喘いでいるのをよそに、政争に明け暮れていた。
   >  役人や、両班はみな私欲にかられて、自らの栄達と蓄財のみを求めて、
   >  弱い民衆を摂取することだけしか考えなかった。
   >  そのために社会道徳が乱れて、精神も文化も経済も疲弊した。
   >  売官売職は普通のことだった。 どこでも賄賂がまかりとおった。
   >  黄金の力と暴力が支配していた。 政治は不正行為の別名しかなかった。
   >  民衆への収奪が極限に達していた。
   >  いつもハルサリ(その日暮らし)を強いられていた庶民は、こき使われるだけこき使われ、
   >  乱暴されるだけ乱暴されて、まったく希望をいだくことができない日々を送っていた。
   >  社会が停滞しきっていた。 火賊や山賊と呼ばれる盗賊が横行していた。
   >  火賊は村を襲うときは放火して、その混乱の中で略奪したためにそう呼ばれた。
   >  日本人は徳川幕府末期の日本について大いに誇ることができようが、
   >  情けないことだが、韓国人としては李朝末期については何一つ誇ることができない。
   >
   >  ( 『醜い韓国人』 朴泰赫 著 (光文社) より引用)
   >
   >
   >  日本に併合前の朝鮮人は自堕落だった
   >
   >  読者は朝鮮人(韓国人)の無気力、怠惰、居候根性、貧しさを
   >  つぶさに観察されたことになるが このために朝鮮(韓国)の独立は極めて困難で、
   >  将来を望むことが難しい。
   >
   >  ( 中 略 )
   >
   >  朝鮮を亡ぼすもっとも大きな、普遍的な原因は
   >  国民挙げて「 独立独行の精神 」に欠けていることである。
   >  健康な体格を持ちながら親族知己に少し富裕な人かあれば
   >  その家に居候して、終日何一つの仕事もせず、暮らしている。
   >  居候も朝鮮人(韓国人)の居候根性は徹底して いる。
   >  京城(現在のソウル)の高官、裕福な人の家には大の男が数十人となく寄食し ている。
   >  二度三度の飯を食わしてもらえば、煙草一服も人のものを吹かしている。
   >  見苦しい話である。
   >
   >  ( 「三十年前の朝鮮」 イギリスの女性旅行家 イザベラ・ルーシー・ビショップ )


   シャルル・ダレ『朝鮮事情』
   http://rekisi.amjt.net/?p=3210
   > シャルル・ダレ『朝鮮事情』 金容権訳 (東洋文庫, 平凡社)より引用します。
   > シャルル・ダレ (Charles Dallet, 1829〜1878) フランス人宣教師
   >
   >
   [ 画像:省略
   韓国104ソウル 東大門通り (日本併合前)
   >
   >
   >  「 序論 」
   >
   >  あなたは、みすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。
   >  ではあなたの知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を
   >  さらに落として想像してみて下さい。
   >  するとそれが、みすぼらしい朝鮮の住まいについての、ほとんど正確な姿となるでしょう。
   >
   >
   >  漢城(ソウル)は糞尿まみれ
   >
   >  朝鮮人に衛生観念は無く、漢城は糞尿まみれで足の踏み場もなく、
   >  肺結核、ハンセン病、肺臓ジストマ、赤痢、チフスなどの疫病が常に流行し、
   >  人口は減り続けている。
   >
   >  ( ※ 日韓併合の前年に、日本が入って京城医専やその附属病院を設立し、
   >     医師、看護師、衛生師を養成した )
   >
   >
   >  道路が無い未開国家
   >
   >  この山国では、道路と運輸機関とが実に不足し、それが大規模な耕作を妨げている。
   >  人びとは、各自の家の周囲とか手近なところを耕作するだけだ。
   >  また、大部落はほとんどなく、田舎の人びとは三、四軒、多くてせいぜい十二、三軒ずつ、
   >  固まって散在している。
   >  年間の収穫は、住民の需要をかろうじて満たす程度であり、
   >  しかも朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。
   >
   >
   >  中国の属国
   >
   >  一六三七年に締結された条約は、清に対する朝鮮の実際上の隷属条件を
   >  加重することはなかったが、形式的には、これまでよりいっそう屈辱的な
   >  従属関係のものとなった。
   >  朝鮮国王は清国皇帝に対して、たんに叙任権を認めるばかりでなく、
   >  身分上の直接の権限、すなわち主従(君臣)関係まで承認しなければならなくなった。
   >
   >
   >  王宮すらも小さい未開建築
   >
   >  朝鮮の王宮は、パリの少しでも余裕ある年金生活者でも
   >  住むのを嫌がるようなつまらない建物である。
   >  王宮は、女と宦官で充ちている。
   >
   >
   >  不潔で未開
   >
   >  ソウルは、山並みに囲まれており、漢江の流れに沿って位置し、
   >  高くて厚い城壁にかこまれた人口の多い大都市であるが、建築物には見るべきものはない。
   >  かなり広いいくつかの道路を除いては、曲がりくねった路地だけがあり、
   >  この路地には空気も流れることなく、足にかかるものといえばごみばかりである。
   >  家はふつう瓦で覆われているが、低くて狭い。
   >
   >
   >  お金で何でも出来る腐敗国家
   >
   >  官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は、当然その費用を取り戻そうと努め、
   >  そのためには体裁をかまおうとさえしない。
   >  上は道知事から最も下級の小役人にいたるまで、
   >  徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金をかせぐ。
   >  国王の御使すらも、極度の破廉恥さでその特権を濫用している。
   >
   >  ( ※ 歴代の韓国大統領が、実権を失うと、汚職で捕まる理由がよく解ります:著者注 )
   >
   >
   >  中国の劣化コピー学問
   >
   >  その一つは、朝鮮における学問は、全く民族的なものではないという点である。
   >  読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語であり、
   >  歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、
   >  大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。
   >  写本はいつも原本よりも劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べて
   >  かなり見劣りするのは、当然の帰結である。
   >
   >
   >  科挙試験など無く買収できる両班の地位
   >
   >  昔日のことはさておき、こんにち公開試験〔科挙〕が極めて堕落していることは確かである。
   >  こんにちでは、最も学識があり最も有能な人に学位免許状が授与されるのではなく、
   >  最も多額の金を持った者や最も強力な保護者のいる人びとに対して与えられている。
   >
   >
   >  両班地獄
   >
   >  朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢である。
   >  他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、
   >  権力の均衡を保っているが、朝鮮では、両班の人口が多く、内部では対立しているにも
   >  かかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することは
   >  よく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。
   >
   >
   >  男尊女卑
   >
   >  朝鮮においても、他のアジア諸国と同じように、風俗は甚だしく腐敗しており、
   >  その必然的な結果として、女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。
   >  女性は、男性の伴侶としてではなく、名前はなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは
   >  労働力であるにすぎない。
   >
   >
   [ 画像:省略
   シマチョボリを着た既婚女性 男の赤ちゃんを産んだ証として胸を露出
   >
   儒教社会の韓国では、男子を生むことが女性の最高の栄誉であった。
   [ 画像:省略
   >
   >
   >  怠け者
   >
   >  この世では、もっとも良いことでも、常に悪い反面を伴っている。
   >  これまで述べた質朴な習慣にも、いくつかの不都合な点がある。
   >  その中でももっとも重大なことは、それらの習慣が、一群の悪い奴らの怠けぐせを
   >  野放しにすることである。
   >  これらの者は、人びとの歓待をあてにして、全く仕事をしないで、
   >  あちこちをぶらぶらしながら生活する。
   >  もっとも図々しい者になると、豊かな人や余裕のある人の家に
   >  まるまる数週間も身を落ち着け、服までも作ってもらう。
   >
   >
   [ 画像:省略
   >
   >
   >  感情的
   >
   >  朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。
   >  それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。
   >  異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行われていないし、
   >  キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。
   >  大人は不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく
   >  成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるように
   >  なる。
   >
   >
   >  軍隊
   >
   >  しかし不思議なことに、にもかかわらず軍隊は概して非常に弱く、
   >  彼らは重大な危機があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。
   >  たぶんそれは、訓練不足か組織の欠陥のためであろう。
   >  有能な将官さえいれば、朝鮮人はすばらしい軍隊になるだろうと、
   >  宣教師たちは確信している。
   >
   >
   >  強欲浪費家国民
   >
   >  朝鮮人は、金儲けに目がない。 金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。
   >  彼らは、財産を保護し盗難を防ぐ道徳的な法をほとんど知らず、まして遵守しようとはしない。
   >  しかしまた、守銭奴はほとんどいない。
   >  いるとしても、富裕な中人階級か商人のあいだにいるにすぎない。
   >  この国では、現金の二、三万フランもあれば金持だといわれる。
   >  一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。
   >
   >
   >  無駄飯大食らい
   >
   >  朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。
   >  この点に関しては、金持も、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。
   >  多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、
   >  量ではかられる。 したがって、食事中にはほとんど話をしない。
   >  ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。
   >  そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。
   >  母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、
   >  時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。
   >  それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。
   >
   >
   >  未熟な建築技術
   >
   >  朝鮮の家屋は、一般に、非常に小さく不便である。
   >  台所の煙を送りだす通管〔房管〕を下に通す必要上、地面よりも少し高く建てられているが、
   >  しかしソウルでは、必ずしもこの方法が一般的とはなっていない。
   >  これは、冬場をしのぐにはかなり便利であるが、夏場になると、熱気が屋内にこもって、
   >  まるで人びとに耐えがたい体罰を課していると同じような状態になるからである。
   >  それで、おおかたの人は戸外で眠る。
   >
   >
   [ 画像:省略
   一般的な韓国人の家の中(日韓併合前、1890年ごろ)
   >
   > 乞食の家ではなく平均的な家庭
   > ( 地面に直接むしろのようなものを敷くだけで、まともな壁も屋根もない )
   >
   >
   >  不潔な人々
   >
   >  衣服は、白衣ということになっているが、しかし、ちゃんと清潔さを保っているのは
   >  とても労力のいることなので、たいていの場合、濃厚な垢のため色変わりしている。
   >  不潔ということは朝鮮人の大きな欠陥で、富裕な者でも、しばしば虫がついて
   >  破れたままの服を着用している。
   >
   >
   >  学問は中国の劣化コピー
   >
   >  朝鮮では、ある種の科学研究は国家が保護しているし、
   >  またそれらの発展を奨励するため政府によって建てられた専門の学校がある。
   >  にもかかわらず、研究はほとんど取るに足りない。
   >  正式の天文学者は、毎年北京からもたらされる中国の暦を利用するに
   >  必要な知識をもっているくらいで、あとはばかばかしい占星術のきまり文句を知っている
   >  だけである。
   >
   >
   >  何世紀も科学と産業が進歩しない遅れた国
   >
   >  朝鮮人は、科学研究の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、
   >  産業の知識においては、なおさら遅れている。
   >  この国では、数世紀もの間、有用な技術はまったく進歩していない。
   >
   >
   >  貨幣制度
   >
   >  商業の発達に大きな障害になっているものの一つに、不完全な貨幣制度がある。
   >  金貨や銀貨は存在しない。
   >  これらの金属を塊にして売ることは、多くの細かい規則によって禁止されている。
   >  例えば、中国の銀を朝鮮のものと同じ棒状に鋳造して売ってもいけない。
   >  必ずや見破られ、棒状の銀は没収されたうえ、その商人は重い罰金をとられ、
   >  おそらく笞刑に処せられるだろう。 合法的に流通している唯一の通貨は、銅銭である。
   >
   >
   >  道路も無い
   >
   >  商取り引きにおけるもう一つの障害は、交通路のみじめな状態である。
   >  航行の可能な河川は非常に少なく、ただいくつかの河川だけが船を通すが、
   >  それもごく制限された区域の航行が許されているだけである。
   >  この国は、山岳や峡谷が多いのに、道路を作る技術はほとんど知られていない。
   >  したがってほとんどすべての運搬が、牛か馬、もしくは人の背によって行われている。
   >
   >
   >  自己保身の為に国民を捨て鎖国する権力者
   >
   >  しかし政府は、おのれの保持のためには必要であると信じているこの鎖国を、
   >  細心に固守しており、いかなる利害や人道上の考慮をもってしても、
   >  これを放棄しようとしない。
   >  一八七一年、一八七二年の間、驚くべき飢饉が朝鮮をおそい、国土は荒廃した。
   >  あまりのひどさに、西海岸の人のうちには、娘を中国人の密貿易者に
   >  一人当たり米一升で売るものもいた。
   >  北方の国境の森林を越えて遼東にたどりついた何人かの朝鮮人は、
   >  むごたらしい国状を図に描いて宣教師たちに示し、
   >  「 どこの道にも死体がころがっている 」
   >  と訴えた。
   >  しかし、そんな時でさえ、朝鮮政府は、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、
   >  むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。
   >
   >
   >  ロシアに食われることが間違いない
   >
   >  アジアの北東部から日増しに侵略の歩を進めているロシア人によって、
   >  いずれその難関は突破されるだろう。
   >  一八六〇年〔北京条約のこと〕から、彼らの領土は朝鮮と隣接するようになり、
   >  これら二国間で、国境問題と通商問題に関してさまざまな難問が起こった。
   >  これらの問題は、今後も間違いなく繰り返されるであろうし、
   >  いつの日にか、朝鮮はロシア領に併合されてしまうであろう。


   朴泳孝の報告書
   http://rekisi.amjt.net/?p=3218
   > 明治21年2月、かつて朝鮮の漢城判尹
   > ( 韓国に於いて首都知事と警視総監を併せた役職 )
   > を勤めたことがある朴泳孝は、日本滞在中に朝鮮国王宛てに
   > 内政改革の建白書を著し、その中で京城市街について次のように述べている。
   >
   >  「 王宮や後宮から街、道路、橋にいたるまで、塵芥が丘陵を成し、
   >   糞屎は金を塗るが如し。これ外国人が大いに恐れるところ、そして嘲笑するものなり。
   >   見るところ極めて美しからざるのみならず、その蒸発の気は必ず疫病を醸成するものなり。
   >
   >  ( 「 韓国人朴泳孝建白書 」 より引用 )


   宮本小一外務大丞の日記録
   http://rekisi.amjt.net/?p=3220
   > 戦前の日本人は、正確な事実を言知っていた
   >
   > 戦前の日本人は、韓国(朝鮮半島)がいかに立ち遅れていたか、
   > 日本がどれだけ苦労して韓国を当たり前の国に引き上げるために手を差し延べ続けたか、
   > 誰もが当たり前に真実を知っていた。
   >
   > しかし、その事実は、昭和20年9月、GHQにより闇に葬られた。
   >
   > その一例を紹介します。
   >
   > 宮本小一外務大丞の日記録
   >
   > 明治9年(1876)6月、日本政府により宮本小一外務大丞が
   > 朝鮮国京城(ソウル)へ派遣された際の日記録および、同行した陸軍士官の報告である
   > 「朝鮮紀行」より引用です。
   >
   >  井戸、泉水について
   >
   >  浅間艦が仁川府所轄の済物浦で給水を求めたが、干天のため水が乏しかった。
   >  こちらの水夫らが朝鮮人と共に井戸を掘ると、4尺(1.2メートル)あまりで清水が噴出した。
   >
   >  人々は小井戸あるいは溜め水を用いるのみで、本年のように旱天の時にも
   >  なお手を拱いて、ただ渇水を憂えるだけで、自ら労力して水を得る方法をする者が無い。
   >  かえって日本人によって良井戸を設けられるのは憫笑するところである。
   >  全体に井戸、泉水が乏しい。 井戸の深さも3、4尺に過ぎず、汚濁不潔を嫌わない
   >  風俗であるから、枯れなければそれでこと足れりとするようだ。
   >  水兵達は淡水を求めるのに大変な苦労をした。
   >  山に入って鉱山を拓くかの如く各所で井戸を掘り泉水を求めていた。
   >
   >
   >  糞と牛骨が散乱する王城市街
   >
   >  京城は大河の上流にあり、王城城壁は山の中腹に渡っているが、その地は狭隘であり、
   >  人家が密集している。 およそ3万戸以上はあろう。
   >  城郭には門が八ヶ所ある。 構造が一番壮大なのは崇禮門である。
   >  方位から言う場合は南大門と称する。
   >  門内に入れば西北に一大街路がある。 幅は20メートル余りである。
   >  市街は大抵瓦屋根の家である。
   >  しかしその構造は甚だ雑であり、なおかつ路の両側に矮小の藁屋が列をなす。
   >  ゆえに街路の幅を狭くし、またその不潔なこと名状し難い。
   >  汚水が路の中央に溜まり、牛馬の糞がうずたかく積もり牛骨が散乱している。
   >  しかし誰も掃除する者がない。 夏であるから一層臭気を覚える。
   >  その他の道は、4、5メートル余り。 凸凹を修繕するということがない。
   >  道路端の溝梁はない。
   >  人家が道に出っ張っているのと、引っ込んでいるのとが並んでいて、頗る不整である。
   >  王宮は壮大である。 しかし庭には青草が生い茂っている。
   >  かつて掃除をしたことがないようだ。
   >
   >
   >  風呂場と便所
   >
   >  途中の各官庁には風呂というものが無かったが、ここ清水館では日本人のために
   >  風呂場が新たに作ってあった。
   >  その広さ10坪ほど。 湯を汲み入れて使うが、頗る爽快であった。
   >
   >  また、便所も数箇所仮設してあった。 これも日本人のために作ったと言う。
   >  しかし粗末な藁葺きで不潔であった。
   >  途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。
   >  また、部屋に銅製の蓋付きの缶があり、通常はこれで用足しをするという。
   >
   >  普通、朝鮮人民の家には便所がないとも言う。
   >  そのためか、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蒼蝿が舞い、
   >  部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない位である。 雨が降る日だけ臭気が治まった。
   >  ここでは蚊および蚤はまれであった。
   >  しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、
   >  夥しい蚊と蚤のために、ついに一睡も出来なかったと言う。
   >
   >  日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、
   >  これは京城近傍では奇なる風景だと言う。
   >
   >
   >  護衛朝鮮兵の様子
   >
   >  清水館には、朝鮮兵が2、3百人ぐらいで護衛をしている。
   >  事務官と兵士の上官、下士官には休息所が設けられているが、
   >  他の兵卒は別に屯所もなく、館の内外のいたる所に筵を敷いて座ったり、あるいは
   >  樹木の下に居たりして、それで苦にしてる感じではない。
   >  ほとんどまるで犬や羊の扱いである。 しかし雨の日は甚だ困難であろう。
   >  また、糞尿をそこらあたりにするので、臭気不潔この上ない。
   >  しばしば督促して掃除をさせた。
   >
   >
   >  食事のことなど
   >
   >  食事は1日2回で、たいてい10種類から17、8種に至る。
   >  三尺四方ばかりの有脚盆にうずたかく盛り上げて、倒れ落ちるのを恐れるばかりである。
   >  牛豚鶏魚の肉、草餅、羮汁など、みな、器、皿に堆積する。
   >  しかし臭味がひどく箸を下す者が少ない。
   >  ただ桃李、林檎、瓜などは臭味がないので食べられる。
   >  沙果・・・林檎に似て頗る大であるが美味ではない。
   >  マクワウリ、葡萄、西瓜、梨の類が多い。
   >  水煮の卵、牛肉、豚肉、鶏肉、麺、カラスミ、乾し魚を削ったもの、或いは日本人のためにと
   >  焼き魚も出した。 蜜を湯で溶いてミル(海草)と煮餅をあえたものなど。
   >  それらが、1人に対して実に10人分程もある驚くべき量であった。
   >
   >  炎熱の時節でもあり、その異様の臭いに堪えきれず、胃腸も慣れないこともあって
   >  食傷を恐れて箸を下す者が稀であった。
   >  なお、庶民のものは不潔で食べるべからずと言う。
   >
   >
   >  膳台や食器など
   >
   >  盆や膳類は漆が剥げ落ち垢がついてすべて不潔さを感じた。
   >  磁器皿の類は日本伊万里の下等品および呉洲のものが混じる。
   >  朝鮮製のもあるが質が厚くて粗雑で石のように重い。
   >  彩画はなくて青白色の上薬を用いるのみ。 しかしいずれも汚れたような不潔さを感じる。
   >
   >  牛豚鶏魚の肉も、調理をきちんとして器や皿を清潔にすれば、
   >  もとより食べられるものとなると思う。
   >  日本人がこの国に来れば、まず食べ物に注意しない時は、
   >  到底飢渇の患いを免れられないであろう。
   >
   >
   >  米について
   >
   >  米は日本のものと似るが、粘質に乏しく日本の下等品よりも劣る。
   >
   >
   >  風景名物に乏しく見物を嫌う
   >
   >  山々は、花崗岩質の土砂多く所々斑に青草が生えている。
   >  また、老松が疎らに立っている。
   >  禿山が多いからその風景の情が乏しいものに感じられる。
   >
   >  三角山と称する剣鋩の如き山あり。 王城の鎮たり。
   >  有名の山のようで朝鮮人の会話によく名が出てくる。
   >  村家や部落の地は樹木少なく、垣根なく、隠すものが無いので
   >  遥かに見渡すことが出来る。
   >
   >  「薬水」は、
   >  「 ここから2キロばかりの所に樹木鬱蒼と繁り、渓流清冷にして最高の避暑地があるので
   >    この地に遊ばれたらよい 」
   >  というので案内された。
   >
   >  市街を横切り「迎恩門」外の山麓にあった。
   >  しかし、背の低い松がまばらに生えた狭い谷があるばかりで、清水と言っても
   >  岩石の間から水が滴り出るぐらいの景況で、あたかも乞児の棲居する所の如し。
   >  皆、裏切られた気持ちで驚いたり悔やんだり憤慨したりして他の地に行こうとしたが、
   >  朝鮮の護送兵が頻りに遮り拒むので、ついに館に戻った。
   >  これでも、朝鮮人の話題にこの地のことがしばしば出るところからも、
   >  これをもって京城の風景名物に乏しいことを推察するべし。
   >
   >
   >  草木について
   >
   >  各所に多く松を見る。 この国では松が多いと見えて松の実を食用によく用いる。
   >  背が低くて横に曲がったものが多い。 直立して天を指して伸びたのは稀である。
   >  朝鮮の南部ではほとんど松は見ないが、釜山草梁公館には元禄時代の頃に
   >  松を植林したので鬱蒼と繁って風濤洋海を航するが如し。
   >  釜山、江華府、京城、それぞれの山が草木が繁るのに不適のようである。
   >  禿山が多く、遠望すれば黄赤色が斑々としてその観は美ならず。
   >  家屋の建築には松材以外に無い。
   >  草木が少ないということは、それを愛玩して植える人もないということである。
   >  京城(ソウル)に花戸というものがない。 人が植えた花木というものが無い。
   >
   >
   >  田園地帯
   >
   >  土地は痩せていないようである。
   >  丘陵は雑木ばかりであり、開墾をしたこともあるが
   >  村民が懶惰(なまけもの)だからついにそれも止めたと言う。
   >
   >
   >  市場、産物
   >
   >  大海から直接船が来ることは無いようである。 魚蝦は海から遠いので乏しいようだ。
   >  もっとも、朝鮮人は、牛豚類を重用して鱗魚を賞しないようで、魚類は多く見ない。
   >  野菜などは、通常の種類がある。
   >  しかし、浅間艦が1度に多量の数(船員約250人)を求めたが、
   >  すぐに得ることが出来なかった。
   >  都外はもちろん都内でも魚市の貿易常に寂寞たるを知るべし。
   >
   >  薪柴も乏しい。
   >  家屋の床下に竈を設けてそれを燃やし、温暖にしてその上に座して冬の寒を防ぐので、
   >  そのために極めて多量の燃料を必要とし、山々はそれがために禿山となっている。
   >  ゆえに薪柴は貴重品である。
   >  石炭は、修信使がかつて我が国の汽船に乗ったときに初めてそれを見たと言う。
   >  後に帰国してから山中に石炭を見たという。
   >  しかし掘る方法を知らないと言うので、後に(理事官−宮本小一が)石炭抗を掘る方法を
   >  書記して朝鮮国に送る事を約束した。
   >
   >
   >  一般民家
   >
   >  その家屋は石と泥をもって築立し、稲藁を葺いて屋根としている。
   >  茅は焚き火の用に使うという。
   >  窓が小さく、大人が家に入って立つことが出来ないようだ。
   >  たいていの家に「床」というものが無く、土の上に藁むしろを敷いて座す。
   >  その狭さ不潔さといい殆ど穴居の類である。
   >  そういう家が表裏の別なく密集し、路地には乱石が磊落して、ほとんど足をいれることが
   >  出来ない。
   >  村の中央の家に行こうとするには、どの路地をどう曲がっていけばよいのか
   >  分からないぐらいである。
   >  寝起きするのも容易でないような家の中にはわずかに1、2の炊具を見る。
   >
   >
   >  庶民の姿
   >
   >  村民は、粗食に甘んじ寒寂に耐え、人間世界は斯くの如しと思うのみで、
   >  悠々として歳月を送る風がある。
   >  奔走して労働し寸陰を惜しんで急するという気性は無い。
   >  長煙管をもって煙を弄びながら余念無く日本人を見つめる姿は、
   >  山静かにして日長き殆ど太古の少年の如しである。
   >
   >
   >  いいかげんなのは国風
   >
   >  時間を守ることをしないのは朝鮮の国風である。 そのことを気にする者はいない。
   >  公務などにおいても同様である。
   >  対談をしていても詐偽をもって答えたり、去ることを言わないまま帰ったりする。
   >  甚だしいのになると、話の途中で立ってどこかに行ってそのまま戻って来ない。
   >  皆これらは朝鮮の風習である。
   >
   >
   >  気候と風土病
   >
   >  一日の温度差が激しく、20度ぐらい差がある。
   > ( 一行の京城滞在は、7月30日から8月26日まで )
   >
   >  日本人に病人が多くなってきた。
   >  これは気候が不順なことと食料の粗末なことに原因があると思う。
   >
   >  帰国する頃には、京城に行った者は半数が病人である。 重症の下痢の者が多い。
   >  中の一人(金子鉄蔵)が医官の治療の甲斐なく死亡した。
   >
   >  この病は一種の風土病でかつて台湾で流行したものと同じ種類であろう。
   >  また朝鮮は悪性の熱病も多いという。
   >  浅間艦に居た者も下痢や脚気になった者が多い。
   >  今後、朝鮮国に人を派遣する場合は、予防法に注意すべきを要す。
   >
   >
   >
   >  最近朝鮮事情  荒川五郎 著  明治39年 清水書店より引用
   >
   >  日本の者が朝鮮に入り、朝鮮人家の間に雑居し、または朝鮮内地を旅行して
   >  朝鮮人の家に泊まると、一番に困るのは家の不潔であるのと、
   >  一種の臭気を吐き気を催すほどであるうえに、南京虫がやって来るので、
   >  実に快く眠ることができないからである。
   >  また小便壷はたいてい室の中に置いてあって、大人でも小児でも、客の前であろうが、
   >  誰が居っても構わず、ジャ〜と小便する、またその小便器を口の側に持って寄せて
   >  唾を吐き込む、彼らは久しい慣習で、別になんとも思わぬらしいが、
   >  日本人の目から見ればいかにも見苦しい、たまったものではない。
   >  これが田舎になると一層ひどいのはいうまでもないが、しかし田舎のみではない、
   >  京城でも割合に不潔でないのは大路位のみで、少し折れて小路に入ると、その臭気は
   >  鼻をおおっていなくては通れない程で、塵や芥が道の上に散り乱れており、
   >  家々の便所から大小便は勝手に流れ出でつつある、
   >  そこらあたりを朝鮮の小児らは平気でガヤガヤと戯れ遊んでいる。

 無理に決まってるだろ。



 戦後持ち出された、38度線で南北を分かつ多国間信任統治構想も、
 朝鮮が自治能力を獲得したと判断されるまで強大国が朝鮮を共同管理し、
 独立後もその管理体制に服従させアメリカの影響力を維持するという発想でした。
 植民地からの解放後も、完全独立を求める朝鮮の切実な民族運動は、
 冷戦による大国の対立と、国連を基盤とした新たな国際関係のもとで抑圧され続け、
 朝鮮戦争後も南北は休戦状態のまま分断が固定化し、朝鮮半島の緊張と緩和を
 大国主導で決める体制が持続しているのです。

 

   wikipedia「朝鮮戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮戦争 - 1.概説

   > 1945年8月15日、第二次世界大戦において日本は連合国に降伏したが、
   > その時点で日本が併合していた朝鮮半島北部に
   > 連合国の1国のソ連軍(赤軍)が侵攻中であり、日本の降伏後も進軍を続けていた。
   > 同じく連合国の1国で反共主義を掲げていたアメリカは、
   > ソ連の急速な進軍で朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、
   > ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。
   > ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、
   > 南部をアメリカ軍に分割占領された。

 アメリカの提案をソ連が呑まなかったら、今、其処に在るのは [ 北朝鮮 ] と [ 韓国 ] ではなくて、良く てロシア(ソ連)領の自治区、悪けりゃ朝鮮人を鏖殺しの上で単純にロシア(ソ連)です。

 だいたい大韓帝国というクチ先だけ一丁前のハナタレガキンチョが、大日本帝国という自立した大人 の手から離れたのですから、新しい保護者が付くのは当然です。



 第三は朝鮮内の「内戦」によってもたらされる「非平和」です。
 ここでいう「内戦」とは、単に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とのあいだの対立を
 指しているのではありません。
 南北対立の源流には、第一、第二の要因と関連しながら形成された、
 「親日派」と民族独立運動との対立が大きく作用しています。
 朝鮮の独立を目指すよりも妥協しながら自己利益の維持・拡張を図ろうとする「親日派」と、
 植民地支配の圧政に抵抗し独立を目指す民族運動との間の対立は、義兵戦争の際には
 すでに表面化し、植民地支配の時期を通じて深刻化していきました。
 「親日派」の中でも軍隊や警察官吏出身者は、単に植民地時代に朝鮮社会の平和的存続に
 打撃を与えたという存在ではなく、植民地からの解放後も米軍政の庇護の力を借りて
 南側の軍事・警察体制の中枢に深く食い込んでいきました。

 

 だったら、今からでも軍隊や警察官吏出身者の中に居る「親日派」を粛清すりゃいいだろ。

 それで

   朝鮮内の「内戦」によってもたらされる「非平和」

 とやらが解決するのなら、やらない手はあるまい?

   朝鮮内の「内戦」によってもたらされる「非平和」

 が

   「親日派」の中でも軍隊や警察官吏出身者

 の所為だと分かっていて何故、放置するんだよ。

 言ってることと、やってることが完全に矛盾してるじゃないか。




 以上のような三つの要素が埋め込まれた、150年にわたる朝鮮半島の「非平和」を見てみると、
 朝鮮半島の平和と安定(統一)と日朝(日韓)関係の「正常化」の為には、
 単に南北が相互に和解を進めるのではなく、日本が植民地支配責任をはたして
 真に平和的な関係を南北朝鮮と結び(平和と統一を支援するということ)、
 朝鮮半島に埋め込まれた国際的な朝鮮戦争を終結させることが極めて重要であることが
 わかります。

 

 日本は朝鮮の「おかぁさん」ではありません。
 
 兄弟喧嘩を諌めるように、南北朝鮮の統一に力を貸して欲しいと願うのであれば、今すぐに従軍慰安 婦問題などという捏造史に基づいた日本叩きを中断し、従軍慰安婦問題なんかよりも遥かに悪辣な韓 国軍慰安婦もんだとベトナム民間人虐殺およびベトナム民間人女性集団レイプ,そしてそれによっても たらされたライダイハン問題について、真摯に謝罪と賠償を行って罪を償いなさい。
 それではじめて、韓国が先進国の仲間入りを果たして、日本を始めとする諸外国から統一の為の手 を差し伸べて貰えるようになります。

 今のままでは、あと半万年経っても誰も手助けなんかしません。



 植民地への「改編」のための「暴徒討伐」=治安戦

 次に、こうした「非平和」の政治状況に規定された、植民地における「日常」と「非日常」が、
 いかに分ち難いものであるかを考えてみましょう。
 日本は、日露戦争以降、朝鮮の植民地化を進めていきますが、その過程で
 愛国啓蒙運動(開化派から独立協会にいたる開明的な政治勢力の系譜の中で形成された、
 教育や産業などによる実力養成を志向し都市を中心に展開された啓蒙運動)と
 抗日義兵戦争という二つの国権回復運動が起こりました。
 とりわけ、後者は武装蜂起による全国的な抗日戦争となりました。
 それに対し、日本がとった方策は、朝鮮社会の制度を徹底的に「改編」し、
 高揚する抵抗運動を武力で徹底的に弾圧する(「暴徒討伐」という名の治安戦)という形の
 繰り返しでした。
 弾圧においては「膺懲」(徹底的に懲らしめる)という言葉がさかんに用いられましたが、
 その内容は、具体的には抗日運動の根拠地の焦土化、徹底討伐、村落連座制の適用など
 苛烈なものでした。

 

 はいはい、何度も何度も同じ嘘をw

   YAHOO!知恵袋「日韓併合時に韓国側大々的な抵抗はあったのでしょうか?」
   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11118364261

   > gropu220さん 質問日時:2013/12/23 19:42:12
   >
   > 日韓併合時に韓国側大々的な抵抗はあったのでしょうか?
   >
   > 軍人がゲリラ化して抵抗が続いたとか、反対を訴える大デモはあったんですかね?

   > granzootさん   回答日時:2013/12/23 21:13:24
   >
   > ありません。 そもそも当時は李朝の搾取が酷すぎて民衆はそれどころではない状態・・・・。
   > 日露戦争までに起こった民衆の反乱は全て朝鮮王朝に対する反乱で
   > 日本は巻き込まれただけ・・・・。
   > 日韓併合と言うのはそもそも1909年の12月4日に「大韓帝国の最大結社」である一進会が
   > 「日韓合邦を要求する上奏文」 を大韓帝国皇帝・高宗と首相の李完用に提出し
   > 「対等な立場での日本との合邦」 を要求しました。
   > 理由は予算が行き詰り再び破綻の危機に瀕したため・・・・・。
   > しかし、この要求に対して大韓帝国の農商工大臣の宗乗oが
   > 「 日韓双方の国力の差、文明の程度の差から”日韓対等合邦”は事実上不可能であり
   >  ”連邦制”では欧米列強に対抗するような強固な国家は建設できない。
   >  したがって日韓が一体となり伍ず強固な国家を建設するには
   >  大韓帝国皇帝の全権を大日本帝国天皇陛下に移譲するのが最も現実的である 」
   > と主張して併合条約締結に向かう・・・・。
   > つまり、言い出したのも主体的に進めてきたのも朝鮮人で
   > 最も大きな併合への障害が総監府初代総監の伊藤博文だったわけです。
   >
   > 補足
   > 一進会と言うのは東学党の残党が作った集団で
   > 民衆の支持者がかなり多かった朝鮮の政治結社です。

   

   > celtscepticさん   回答日時:2013/12/27 22:23:50
   >
   > 孫引きで恐縮ですが、日韓歴史共同研究報告書(第1期)の第3分科(近現代)の
   > 日本側の学者、戸部良一の『朝鮮駐屯日本軍の実像:治安・防衛・帝国』という論文(↓)に、
   > 朝鮮駐箚軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」(1913年)が引用されています。
   >
   > http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/08-0j_tobe_j.pdf
   >
   > 当時の日本から見れば“暴徒”、韓国から見れば“義兵”の死傷者等は、
   > 1906年から1911年までの間に 「死者17,779人、負傷者3,706人、捕虜2,139人」 だそうです。
   > (↑の論文のP395=9枚目)
   >
   > 村落の住民が“暴徒”を支持したり匿ったりした場合は、
   > 「 責を現犯の村邑に帰して誅戮を加え若くは全村を焼夷する等の処置を実行 」 し、と
   > 相当激しい鎮圧を行ったようです。
   > ( 「」内は、朝鮮暴徒討伐誌からの引用。 カタカナはひらがなに変えています。
   >  ↑の論文のP394=8枚目 )
   >
   > ただ、交戦回数は
   > 「 1907年(8月以降)323回、1908年1,451回、1909年898回、1910年147回、
   >  1911年(6月まで)33回」(↑の論文のP393=7枚目。元ネタは朝鮮暴徒討伐誌)と、
   > 1907年の高宗の退位と韓国軍の解散をきっかけに本格化した抵抗は、日韓併合前には
   > ほぼ鎮圧されてしまっており、更に
   > 「 併合の際に於ける韓国軍隊の処分に就ては特に周到の注意を加えたり。
   >  明治四十年八月韓国政府が地方駐屯の鎮衛隊全部及び侍衛隊の大部を
   >  解散するに方り、非常なる紛擾を生じ其の解散の命に服せずして強力を以って
   >  抵抗を試みたるものあり、また解散兵にして相率いて暴徒に投じたる者亦少なからず。
   >  之が為め施政上に多大の影響を及ぼしたることあり。」
   > ( 「韓国併合始末ノ件」国立公文書館アジア歴史資料センター
   >  レファレンスコードA04010229300よりの引用 )
   > と、日本側が高宗退位後の事態を繰り返さぬよう意識していた事もあり、
   > 併合後に大規模な抵抗はおきませんでした。(全く無かった訳では無いですが…)
   >
   > また、国立国会図書館のデジタル化資料にある
   > 「朝鮮最近史 : 附・韓国併合誌」 (戸叶薫雄, 楢崎観一著・蓬山堂・1912年)
   > には、高宗退位の時の投石などを伴うデモや
   > 韓国軍の兵士の日本の警察隊への発砲についても書かれています。
   > ( 第六章丁未の政変の“三、反対派の暴動” )

   

   > granzootさん   編集日時:2013/12/27 22:55:46
   >
   > 追記します。
   > 朝鮮暴徒討伐志については前にも書きましたけど根本的に読み方が間違ってるんです
   > 研究者の・・・・。
   > 暴徒と言うのが日本から見た物と言うのは誤解です。
   > そもそも当時は大韓帝国の独立を目指して総監府が指導してる
   > 或いはその前段階で条約を整備する際中と言う時期です。
   > 当然ですが法令は大韓帝国の政府の名義で出ています。
   > またこの記録の大半は大韓帝国になる前の段階での討伐で
   > 討伐自体は朝鮮王朝の要請で行われたものです。
   > つまり暴徒と見てたのは「朝鮮王朝の方」であって日本軍は朝鮮王朝から
   > 「暴徒鎮圧」を要請されて「鎮圧してるのです。
   > 当時の朝鮮にはまともな軍隊は存在しません。
   > ですから日本軍に要請が来るのです。
   > それを何か日本に対して反乱を起こしたかのごとく書くような言論には私は同意できないし
   > 間違ってると思うと言う事です。
   > 1980年前後に出た朝鮮史の本はこういう意図的な誘導を引き起こす記述がものすごく多い。

 はい、論破。


 というかさ。

   2008年11月07日 トラネコ日記
   日韓併合の世界的評価 その2・併合は植民地支配ではない
   http://ryotaroneko.ti-da.net/e2188933.html

   《略》
   >
   > しかも呉善花氏によれば、当時朝鮮半島にいた日本人の数は朝鮮人口に対して、
   > 大正時代末期で約1%、昭和6年でも2.6%に過ぎない。
   > 軍隊も数千人しかいないし、警察官も朝鮮人のほうが多い。
   > そして半島の主要な行政府や公務員も朝鮮人のほうが昭和に入ってからは、
   > 圧倒的に多くなっている。 学校長や警察署長も朝鮮人が多い。
   >
   《中略》
   >
   > こんな状況で少数の日本人が朝鮮人に残虐非道な行為ができるだろうか?
   > もしこのような状況下でごく少数の日本人支配者によって、
   > 朝鮮人すべてが世界史上まれに見るような残虐非道な目にあわされていたとしたら、
   > よほど朝鮮人は弱小のヘナチョコ民族であった証拠である。
   > こんな弱虫が日帝への抵抗運動な出来るはずがないではないか?

 本当にサヨクの言うような大規模な抗日運動が広範囲で起こっていたら、圧倒的少数派でしかなかっ た日本人は、あっという間に壊滅状態に陥ってしまっただろう。 そうなれば、僅か数十万人といえども 真正の日本人を見殺しにすることなんか出来ませんから、日本本土から大部隊が鎮圧のために送り 込まれて大規模な戦闘が繰り広げられる事は必至です。
 でも、そんな事件は起こりませんでしたし、日本から大部隊が増援のために朝鮮半島へ進軍したとい う歴史も存在しません。
 この事実が、幾らサヨクが口角泡を飛ばして 「 圧制と支配に耐えかねた朝人が蜂起して抗日運動を 繰り広げた 」 と喧伝したところで、そんなモノは極小規模にしか存在しなかったことを証明しています。

 > 武装蜂起による全国的な抗日戦争

 なんか存在しません。 実際問題、弾圧されたという抗日運動の中身はコレでした。

 ■ 甲午農民戦争 ■

   wikipedia「甲午農民戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/甲午農民戦争 - 1.第一次蜂起

   wikipedia「甲午農民戦争」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/甲午農民戦争 - 3 第二次蜂起


 ■ 義兵戦争 ■

   慶文堂 ひま人日記
   7-3-5 抗日義兵戦争の展開
   http://plaza.rakuten.co.jp/sagaenokeibun/2020/
    
   慶文堂 ひま人日記
   *5 抗日義兵戦争の展開〜私的考察
   http://plaza.rakuten.co.jp/sagaenokeibun/2022/


 ■ 三・一独立運動 ■

   2010/7/6 かつて日本は美しかった
   三・一独立運動の隠された事実
   http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/25817795.html

   2010-08-24 No!自虐史観
   【反論】三・一独立運動の真実
   http://ameblo.jp/hironk2005/entry-10627540852.html


 ■ 間島虐殺 ■

   wikipedia「間島事件」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/間島事件

   【満州国の治安】もひとつ間島地区の例
   http://www.asyura2.com/0601/asia4/msg/538.html
    
   柴野貞夫時事問題研究会
   《間島大討伐》は、民族抹殺を狙った極悪な殺人犯罪
   http://www.shibano-jijiken.com/SEKAI O MIRU SEKAI NO SHINBUN 197.html


 ■ 満州抗日戦争 ■

   満州事変は悪ではない 〜ぎりぎりの中の決断〜
   http://www.geocities.jp/vivelejapon1945/mansyu.html

   wikipedia「抗日パルチザン」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/抗日パルチザン - 2満州の抗日パルチザン

 極めて単純な [ 治安維持のために必要なテロリストやアカの鎮圧 ] でしかありません。



 例えば、全羅南北道において行われた義兵に対する「南韓大討伐作戦」(1909.9〜10)は、
 その目的が「帝国の威信」を朝鮮人に見せつけることと、
 「邦人の対韓事業の勃興」、すなわち利害・開発の推進にありました。
 植民地化過程においては、「開発」と「治安戦」が同時に進行しました。
 だから、「開発」の推進=「平和」=日本人と朝鮮人の友好」、「暴徒討伐」=「例外的な治安戦」、
 という形で、前者を「日常」、後者を「非日常」と区分けすることはできないわけです。
 さらに、日本による朝鮮植民地化は、朝鮮社会の中に「治安戦」をめぐる緊張を恒常化させる
 きっかけにもなりました。
 義兵弾圧のために導入された自衛団規則(1907年11月)は、憲兵・警察・軍隊の指揮下のもと
 村落に自衛団を置き、武器の摘発、帰順奨励、巡邏警戒、偵察諜報を行わせて
 義兵をあぶり出そうとする構想で、人々の生活の場において、支配と抵抗をめぐる軋轢を
 深刻化させていくものでした。
 とくに、末端官吏・憲兵補助員・警察官や有力者などは「親日派」として批判される
 きっかけとなりました。
 また、愛国啓蒙運動に対しても、1907年7月27日には保安法を施行し、
 内部大臣が結社を解散し、警察官は集会や大衆運動を制限・禁止することができるようにしました。

 

   2011年11月14日 ちゃぬの裏韓国日記
   日韓併合時代は警察官の6割が朝鮮人だった
   http://ameblo.jp/chanu1/entry-11078024864.html
   > 「 日本が韓国の警察制度の近代化に乗り出したのは、1910年になってからでした。
   >  警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化しました。
   >  一般に韓国民衆を弾圧するためと即断されがちですが
   >  無差別に行われる韓国官憲の横暴や拷問を防ぎ、
   >  「義兵」などと称して行なわれていた山賊まがいのことや、
   >  親日派韓国人へのテロ、襲撃を防ぐためには、断固たる措置が必要であったのです。
   >  しかし日本人は語学ができず、民情にも疎いので憲兵・警察の補助要員として
   >  韓国人を募集しました。
   >  当時、日本人憲兵1007人、韓国人憲兵補助員1012人、
   >  日本人巡査2265人、韓国人巡査3428人で、いずれも韓国人の方が多かったのです。
   >  ところがこの補助員たちは、これまでの宿怨を日本の権力を借りて晴らすものが多く、
   >  悪弊を直すのに困りました。
   >  今村鞆著『歴史民俗朝鮮漫談』(昭和3年)には、
   >  『 朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、
   >   下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、
   >   後の日本に対する悪感情を生んだ。
   >   いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる 』
   >  と述べています。」
   > ( 「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 1997年 国際企画刊 )

 途上国の治安が悪い事は今も世界の常識ですが、日本が併合し朝鮮総督府を置いて統治するまで の朝鮮半島もまた治安がまともな国ではありませんでした。

 犯罪者の巣窟のまま近代化を成すことなど不可能ですから、これを取り締まるのは当然です。

 ただ、言葉の問題と朝鮮人の社会は朝鮮人に維持させようとする日本政府の親心が仇と成り、高麗 棒子が傍若無人の限りを尽くして朝鮮人民衆の怒りを買い、恨みの応酬に繋がったのです。 そのた めに保安法を制定せざるを得なくなりました。 それだけのことです。



 「治安戦」の移転・繰り返しと日常生活への浸透

 1910年の「韓国併合」前後の時期になると、抗日義兵はほぼ鎮圧されました。
 しかし、だからといって植民地は「日常」と「非日常」を峻別できるようになるわけではありません。
 日本は「併合」後も民衆を「騒擾予備軍」として恐れ、予防的に厳しく取り締まるために、
 義兵弾圧の際と同等の規模を持った半軍隊の「威力的警察」、すなわち憲兵警察による支配を
 続けました。


   [ 画像:Q5-1a 軍事演習1912 省略 (引用元アドレスをご参照ください)
   朝鮮人憲兵補助員野外演習の光景 1912年
   (出典)『軍事警察雑誌』6-12(1912年12月)


 憲兵警察の業務は、情報の収集と「暴徒討伐(治安戦)」という従来の軍事警察の職務に加え、
 民事訴訟の調停や国境税関業務から、山林監視・墓地取締・労働者取締などの取締業務、
 日本語普及・殖林農事改良・副業奨励・納税義務の論示など民衆生活の指導業務に至るまで、
 民衆生活全般を管掌するものへと拡大し、警察犯処罰規則の施行(1912年4月)によって、
 87条目の日常行為が拘留と科料の対象とされました。
 例えば、「不穏の演説」「不穏の文書」「流言浮説」「祈祷」「石戦(民間習俗のひとつ)」
 「道路掃除の怠惰」といったものから、「生業なく徘徊」することまで、87条目に入っていたのです。

 

 そりゃあ、糞尿を不潔と思わない生活をして、呪詛で病気が治ると信じている土人を一足飛びに文明 人に引き揚げようってんだから、少々の無理強いが必要なのは当たり前だ。 それとも、今なお併合前 の生活の方が良かった、とでも言うつもりかね?



   [ 画像:Q5-2a 憲兵・民衆講演1915 省略 (引用元アドレスをご参照ください)
   憲兵による民衆に対する講話 1915年
   (出典)『軍事警察雑誌』9-6(1915年6月)


 これらの取締りは、犯罪即決例(1910年12月)によって、
 拘留、笞刑、または科料に相当する罪、
 三か月以下の懲役または百円以下の罰金などの罪について、普通裁判所の手続きを経ずに
 警察署長または憲兵隊長が即決できるようにしました。
 即決処分件数は、1911年1万8100余件から1918年には8万2100余件へと急増しており、
 さらに、朝鮮人にのみ朝鮮笞刑令が適用され、笞刑執行の数は1911〜1916年にかけて
 約5倍に増大しました。
 これは、人々の日常生活の治安対象化が急激に進んでいったことを表しています。

 

 併合前の土人だった時代じゃなくて、韓国は今現在が↓これなんですがw

   2014年02月05日 近くて遠い東アジア
   韓国では4人に1人が罰金以上の有罪判決を受けているという
   http://blogs.yahoo.co.jp/ijkll_12/33466701.html
   > 朝鮮日報の記事。
   > http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2014/02/05/2014020501307.html?news_Head1
   >
   > 罰金以上の有罪判決を受けた韓国国民の数が、1996年は606万人だったのが、
   > 2010年は1084万人にも増え、15歳以上の韓国国民の26.5%が前科者と伝えている。
   > 殺人、強姦、強盗などの凶悪犯罪の件数が、2000年代に毎年4.6%増加していたが、
   > 今では増加率は7%台にまで上がり、出歩くのが怖い世の中になったことを伝えている。
   >
   > 凶悪犯罪の増加に対する対策を提案しているが、それはいかにも韓国らしい発想に基づく提 案。
   > 凶悪犯罪が増えるのは軽微な犯罪が増えるからだと考えて、軽微な犯罪者の数を減らす為に、
   > 軽微な犯罪を取り締まる法律を緩めろという提案。
   >
   > 歴代大統領が人気取りに簡単に大統領恩赦に手をつける韓国らしい発想だが、
   > どこをどうやったら、凶悪犯罪を減らす為に、刑法を緩めろという発想が出てくるのか、
   > 多くの日本人には理解できないだろう。
   >
   > そもそも、韓国で犯罪が増えているのは、韓国社会が貧すれば鈍すという状況に
   > 突き進んでいる結果だろう。
   > そこに手を打たないと、韓国の犯罪の増加は止まらないだろう。
   > IMF時の金大中政権時にアメリカ型競争社会に舵を切って以来、左翼だろうが保守だろうが
   > 歴代韓国政府が財閥優先、韓国版先富論で、中共政権と同じように経済成長最優先で
   > 突き進んだ結果、中国社会と同じ様に、拝金主義の蔓延、所得格差の拡大が進み、
   > 社会から落ちこぼれて犯罪に手を染める時の心理的ハードルが大きく下がっただけの事だろ う。


   2013年12月24日 (U ^ω^ ) わんわんお!
   韓国政府「犯罪赦すニダ!」窃盗など軽微な罪を許す法案で無法地帯化!
   http://wan2o.com/archives/korea-hanzai-kimoi.html
   > 生活苦による犯罪、旧正月に特別赦免
   >
   > 朴槿恵(パク・クンヘ)大統領は23日、来年の旧正月(1月31日)に合わせ、
   > 生活苦による生計型犯罪者の特別赦免を実施することを決めた。
   > 朴大統領は同日行われた大統領府(青瓦台)首席秘書官会議で
   > 「 不正・腐敗や社会指導者層の犯罪を除き、純粋な庶民による生計型犯罪については
   >  特別赦免を検討している。
   >  来年の旧正月に合わせて特別赦免を実施できるよう準備を勧めるように 」
   > 語った。
   >
   >
   > http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/12/24/2013122401126.html

 日本の統治を経てさえ、この有り様です。

 これで

   日本が朝鮮半島を併合した直後に行われた取り締まりは冤罪であったに違いない

 は通りません。

 そして、冤罪じゃない犯罪が( 実際に取り締まられただけで ) 年間8万2,100余件もあったなら、

   普通裁判所の手続きを経ずに警察署長または憲兵隊長が即決できるように

 しないと無数の裁判所を建てて莫大な費用を投入しなければ裁ききれません。



 例えば、風俗警察においては、酒幕(路傍で酒食を売り、旅人を宿泊させる店のこと)営業などの
 取締が厳しく行われましたが、その名目は「内地人の壮丁の健康維持(黴毒からの)」のみならず、
 「賊匪隠匿の巣窟を掃い、社会の粛清をも期し得るものとす」
 ( 朝鮮平北憲兵特務曹長和野内新蔵「植民地と醜業婦取締に就て」
  『軍事警察雑誌』第10巻第4号、1916年4月 )
 というものでした。
 朝鮮人世帯の「過半は酒幕営業」と憲兵は見なし、これらの営業者が民族運動を匿っていると疑い、
 厳格に取り締まったわけです。
 ここにも生活世界の「日常」と「非日常」がいかに分ち難かったかが現れています。

 

 日本憎しの余りに正常な思考が出来なくなっているな。

 「 内地人の壮丁の健康維持(黴毒からの) 」 と 「賊匪隠匿の巣窟を掃い、社会の粛清をも期し得る ものとす 」 というちゃんとした理由があるのだから、酒幕(路傍で酒食を売り、旅人を宿泊させる店のこ と)営業等が取り締まられるのは当たり前だ。

 北朝鮮のことは良く分からないが、韓国は衛生が今なお↓このレベルである。

   2006年08月25日 痛いニュース(ノ∀`)
   【韓国】ウジ入りイワシ塩辛の液汁を製造販売した業者を検挙
   http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/775871.html
   > ウジの涌いたイワシ塩辛を使って液汁だけ取り出し売っていた製造販売業者たちが
   > 海警に摘発された。
   > 蔚山(ウルサン)海洋警察では24日、釜山市(プサンシ)機張郡(キジャングン)一帯で
   > 非衛生的なイワシ液汁を生産、販売していた疑いでキム某さん(45)など20人を摘発して
   > 調査をしている。
   >
   > キムさんら液汁業者3人はイワシ塩辛を熟成させる過程で
   > ホコリや公害、雨風に露出させる事はもちろん、ハエやウジをそのままに
   > 液汁だけを濾して取り出した後これを売っていたことが分かった。
   > またイ某さん(50)など販売業者17人はキムさんが製造した液汁に
   > 商標等を付けないまま数十年間観光客相手に販売していたことも分かった。
   > 一方海警はウジ入りイワシ塩辛を24万リットル押収して、非衛生的なイワシ塩辛が
   > 流通大手を通じて団体給食所に納品されたのかどうかを集中追跡している。
   >
   >
   > http://www.cbs.co.kr/nocut/show.asp?idx=302556&page=2


   2011年11月24日 笑 韓 ブログ
   【韓国】不衛生なキムチ製造業者177カ所を摘発、食中毒菌も検出
   http://www.wara2ch.com/archives/5408987.html
   > 韓国の食品医薬品安全庁は23日、粉唐辛子・塩辛類やキムチ類の製造加工業者など
   > 1768カ所を点検した結果、食品衛生法に違反した177カ所を摘発し、管轄官庁に
   > 行政処分を要請したことを明らかにした。
   >
   > 韓国メディアは、
   > 「 唐辛子の粉などキムチの漬け込み関連企業177カ所を行政処分 」
   > 「 信じていたのに、食中毒菌うようよ 」
   > などと題して、相次いで報じた。
   >
   > 今回の点検は10月末から今月11日まで、地方自治体と合同で行われた。
   > 主な摘発については、健康診断の未実施が33カ所で最も多く、
   > 生産作業記録や原料入庫出荷を記録していなかったのが31カ所、
   > 衛生的取り扱い基準違反が29カ所だった。
   > これらの業者は、該当製品の廃棄や過怠金、営業停止などの処分を受けた。
   >
   > 一方、ソウル市は、大型スーパーなどで販売されているキムチ、塩辛、粉唐辛子など
   > 170種類余りの安全性を検査し、製造加工業者106カ所を点検した。
   > その結果、14カ所が賞味期限を過ぎた製品を使うなど、安全性に問題があったと
   > 明らかにした。
   >
   > 流通大手のホームプラスでは、自社ブランド商品の2種類のキムチから
   > 食中毒菌が発見されたため、同製品の流通と販売を禁止し、回収措置を行った。
   >
   > 問題となった製品では、慶北浦項市の業者が先月11日に生産した白菜キムチから、
   > 基準値の6倍の量の食中毒菌が検出されたという。
   > ホームプラスの食品から有害成分が出てきたのは、今年に入ってすでに6回目となる。
   >
   > ホームプラスは、最近、韓国標準協会とソウル大経営研究所が共同で実施した
   > 「2011 韓国サービス品質指数」の評価で、大手量販店部門で5年連続となる1位を獲得した
   > ばかりだった。
   >
   > 消費者らは、
   > 「 サービス品質第1位のスーパーでこのような有害物質がどうして何度も出るのか 」
   > として、怒りを爆発させていると伝えられている。
   >
   >
   > http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1123&f=national_1123_078.shtml


   2012年04月21日 あじあにゅーす2ちゃんねる
   韓国食品は大便で作られている事が確定www日本に大量輸出wwww
   http://asianews2ch.jp/archives/6017454.html
   > 2012年4月18日、韓国紙・東亜日報によると、
   > 韓国・農林水産食品部が韓国産キムチ、生マッコリ、4年物高麗人参の衛生基準策定を
   > 中国に要請した。 環球時報が伝えた。
   >
   > 15日、韓国・済州島で開催された日中韓農相会合の席上、徐圭竜・農林水産食品部長官は
   > 中国に衛生基準策定を申し入れた。
   > 「キムチの宗主国」韓国だが、中国市場では苦戦している。
   > 2011年の中国向け輸出は61トンにとどまった。
   > 一方、中国産キムチは23万トンが韓国に輸出されている。
   >
   > 輸出が困難な理由は、キムチに泡菜(中国の漬物)の衛生基準が適用されていること。
   > 「大腸菌群は100グラム当たり30個以下」 と定められ、
   > 乳酸菌を含むキムチは規定を満たすことができない。
   >
   > 生マッコリも同様で、
   > 「1ミリリットル当たり大腸菌群50個以下」 という黄酒(紹興酒など中国の醸造酒)の基準が
   > 適用されてしまう。
   > 韓国側は韓国産食品に適合した新たな衛生基準策定を求めている。
   >
   > (翻訳・編集/KT)
   >
   >
   > レコードチャイナ: 2012年4月19日 20時6分
   > http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=60579&type=0


   2011年10月09日 サルでもわかる速報
   【食中毒】ヒラメに寄生虫、男女14人下痢
   あれ、この間韓国産ヒラメが精密検査免除になったような…
   http://blog.livedoor.jp/sarusoku/archives/4632152.html
   > 食中毒:ヒラメに寄生虫 奈良の和食店で男女14人が症状 /奈良
   >
   > 奈良市保健所は5日、同市都祁白石町の和食店「一久」(久保博一店長)で、
   > ヒラメの寄生虫「クドア・セプテンプンクタータ」による食中毒が発生したと発表した。
   > 同寄生虫による食中毒が確認されたのは県内初という。
   > 同保健所は同店を5日から2日間の営業停止処分とした。
   >
   > 市保健所によると、1日昼に同店で、ヒラメのすしや刺し身などを食べた、いずれも
   > 都祁地区の13人と7人の2グループのうち、29〜76歳の男女14人が
   > 下痢などの症状を訴えた。
   > 両グループ各1人の便と、店に残っていたこのヒラメから同寄生虫が検出され、
   > 食中毒と断定した。
   > 重症者はなく全員快方に向かっている。店は3日から営業を自粛していた
   >
   >
   > http://mainichi.jp/area/nara/news/20111006ddlk29040642000c.html

   > 参考
   > 【日韓】日本政府が韓国産ヒラメの精密検査を免除、韓国は輸出拡大に期待
   > http://www.wara2ch.com/archives/5050854.html


   STOP! KOREA! A FALSE KOREAN BOOM IS NOT NEEDED!
   【韓国】食べ残しを使い回した揚げ句、大腸菌と黄色ブドウ球菌の温床に
   → 韓国カムジャタン専門店、食べ残しの使いまわし10軒中5軒 刺身店も使いまわし
   http://mobile-bbsv.com/kfree.php/minsyukorea/9
   > 韓国MBC放送は29日、『不満ゼロ』という番組で飲食店における
   > 食べ残しの使いまわしの実態を明らかにした。
   > 番組がカムジャタン専門店10軒を調査したところ、5軒で客の食べ残しを使いまわす
   > 違法行為が発覚した。 韓国の複数メディアが相次いで伝えた。
   > MBC放送の『不満ゼロ』は消費者の不満を解決するために、
   > 番組が現場で密着取材を行って実態を調査する人気社会番組。
   > 番組は、消費者からカムジャタン専門店で使いまわしがあるとの情報提供をもとに、
   > 1カ月ほど潜入調査を実施した。
   >
   > その結果、10軒中3軒がカムジャタンで使用する豚の背骨を使いまわし、
   > 他の2軒はキムチなど無料提供のおかずを使いまわしていたことが判明。
   > さらに、12軒のカムジャタン専門店の食品サンプルを回収して行った検査では
   > 11のサンプルから大腸菌が、3つのサンプルから黄色ブドウ球菌が検出された。
   > 豚の背骨をカナダ産や米国産を国内産と偽った産地偽装も多数あったという。
   >
   > 韓国では食べ残しの使いまわしが多く、苦情が相次いでいたため、
   > 2009年6月から使い回しを禁止し、厳しい処罰を盛り込んだ「改正食品衛生法」を
   > 施行している。
   > 摘発されると、3回までは15日から3カ月の営業停止となり、
   > 4回目以降は営業許可を取り消した上、懲役また罰金刑など厳しい処罰が下される。
   >
   > しかし、飲食店の食べ残しを使いまわす違法行為は依然と横行しているのが現実。
   > 韓国メディアは消費者からの反応を取り上げつつ、「衝撃的な実態」として相次いで報じた。
   >
   > (編集担当:金志秀)
   >
   >
   > 2011年6月30日 17:45 (サーチナ)
   > http://topics.jp.msn.com/wadai/searchina/article.aspx?articleid=625782


   2011年11月15日 RIDE THE WAVE
   【韓国】 ロッテのお菓子『ペペロ』に、生きたままの幼虫がうじゃうじゃ混入
   http://chitekizaisan.blog28.fc2.com/blog-entry-3404.html
   > 韓国でロッテ製菓が製造・販売しているチョコレート菓子「ペペロ」に、
   > 生きたままの幼虫が混入していたことが11日、明らかとなった。
   > 韓国のテレビ局MBCが、今回の混入の事実を伝えた。
   >
   > 韓国では11月11日は「ペペロ」というチョコレート菓子を親しい人に贈る
   > 「ペペロデー」と呼ばれる記念日で、バレンタインデーに匹敵する一大イベント。
   > 今年はカレンダーに「11」が3回も登場するため、「ミレニアムペペロデー」としても
   > 話題になった。
   >
   > ペペロは、韓国のロッテ製菓が韓国で1983年から発売しており、
   > 1966年から日本で発売されたグリコのポッキーの模倣品ではないかと指摘されている製品。
   > ロッテ製菓はこれを否定している。
   >
   > 韓国メディアは、ロッテ製菓のペペロに虫が混入していたことが分かり、視聴者や消費者に
   > 衝撃を与えていると伝えた。
   >
   > 11日に放映されたMBCの報道番組は、ペペロデーを迎え、仲間への贈り物のために
   > 会社の売店で購入したペペロが白く変色しており、米粒の大きさの幼虫が出てきたと報道した。
   >
   > 製造元のロッテ製菓は
   > 「 これらの虫は人体には害がなく、穀物によくある幼虫。
   >  製造過程には問題はなく、保管上の問題 」
   > としているものの、同番組に出演した専門家は
   > 「 この人体に有害な幼虫で、アレルギーを誘発する恐れもあり危険だ 」
   > と述べた。
   >
   > 韓国メディアは、
   > 「恐怖のペペロデー」「ペペロに米粒ほどの幼虫がうようよ」
   > 「ミレニアムペペロデー、ペペロにまた虫が」
   > などと相次いで報じている。
   >
   >
   > サーチナ 【社会ニュース】 2011/11/15(火) 11:59
   > http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1115&f=national_1115_082.shtml


   2014年05月02日  2chエクサワロス
   韓国食品は、大腸菌など毒が検出されるほど不衛生・・・もはや中国食品の方が安全
   http://exawarosu.net/archives/8351976.html
   > 「 韓国では激しい貧富の格差があり、食品関係者は貧しいのです。
   >  規模が小さいため、設備投資にコストをかけられず、
   >  手軽で安い方法で生産量を増やします。
   >  衛生管理も日本とは比較できないほど不衛生な状況なので、
   >  大腸菌などが検出されるのでしょう 」
   >
   > 韓国食品の問題は細菌に関連したものだけではない。
   > 3月末には海苔の養殖業者17名が、毒性が強い農薬を使用していたことが判明して、
   > 書類送検された。 在韓記者が語る。
   >
   > 「 3年間にわたって、釜山や慶南で海苔の養殖業をする時に、
   >  白藻病の予防とシミ除去のために農薬を使用していました。
   >  政府は海上汚染を防ぐため、農薬を禁止。
   >  代わりに補助金を支給し、『海苔活性処理剤』 の使用を勧めていました。
   >  しかし、あまり効果がないため、業者は工業用の農薬を使用していたのです 」
   >
   > 取締りを行った海洋警察は、消費者に注意を呼びかけた。
   >
   > 「 農薬が肌に直接触れた場合、ヤケドや失明のおそれがある。
   >  摂取した場合、嘔吐や消化不良、胃腸障害など命に関わる危険性もある 」
   >
   > しかし、3年間で、市場には1900トンもの養殖海苔が流通し、大量に消費されていたのだ。
   >
   > 4月11日にはパン生地メーカーの関係者が警察に捕まった。
   >
   > 「 廃棄用の卵3万2000個を養鶏場から相場の3分の1以下の値段で買い取り、
   >  パン生地に使用していました。
   >  廃棄用の卵は冷蔵保管されていたが割れて中身が見えた状態で、
   >  食中毒を起こす危険性があるのです 」 (在韓記者)
   >
   > 発覚時、毒パンはすでに全国のサービスエリアに納品されていた。
   > 調理現場を見て取れる飲食店での食事さえも安全は保証されていないと、朴氏は語る。
   >
   > 「 ソウルなど都市部には道路を挟んで2、3坪規模の飲食店がズラリと並んでいます。
   >  衛生面は最悪で、キムチを作る時に道端で作業したり、
   >  店によっては水道代をケチって、客に出した皿を洗わずに使うケースもありました 」
   >
   >
   > http://netallica.yahoo.co.jp/news/20140430-00010002-asagei

 今でコレなのだから、当時は推して知るべし。

 糞を食って腹を下さないレベルで朝鮮半島の衛生に対応していた朝鮮人はともかく、酒幕は、そちら の解説通りなら、内地人以外が客になる可能性があったのですから、「内地人の壮丁の健康維持(黴 毒からの)」という理由で取り締まられるのは至極当然です。
 さらに加えて、そこは賊匪隠匿の疑いが濃厚だったというのですから、これを取り締まらない方が異 常でしょう。 



 これらの取締りにおいては、朝鮮人憲兵補助員が行商人、学生、神官、僧侶、俳優、呉服屋、
 石工、古着商、乞食、鳶職、請負業者、農夫、樵夫、傷病者、煙突掃除夫、飴売、尼などに
 変装して常に調査に当たっていました。

 

 それだけ犯罪者が狡猾だっただけの話ですよね?

 そこまでされなきゃならないほどに、日常に犯罪が滲み込んでいた事を恥じるべきです。



   [ 画像:Q5-3a 変装演習1914 省略 (引用元アドレスをご参照ください)
   憲兵による変装演習(前列が日本兵、後列が朝鮮人憲兵補助員) 1914年
   (出典) 『軍事警察雑誌』8-10(1914年10月)


 三・一独立運動をきっかけに、「武断政治」から「文化政治」へと植民地統治のありかたは
 一定の変化を余儀なくされ、憲兵警察から普通警察へ、治安維持の主力も交代します。
 しかし、民衆を「騒擾予備軍」と見なし、日常生活から予防的に厳格に取り締まる発想の根本が
 変わるわけではありません。

 

 あのな。 日本が近代化させる以前の朝鮮半島は犯罪が犯罪に扱われないウリナラ儒教の世界だ ったんだよ。

   2014年01月14日 中杉 弘のブログ
   中杉博士の大説法106 日韓併合前の朝鮮
   http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55586135.html
   《前略》
   >
   > そして、階級が一番下の白丁は名前も無いのです。 名前も付けられないのです。
   > 字を覚えてはいけないのです。
   > 字を覚えると 「生意気だ、この野郎!」 と、ぶん殴られるのです。 白丁の人権はゼロです。
   > 両班という威張った連中がいて、「この米もらっていくぞ!」 と言って、
   > お米を全て奪ってしまうのです。
   > 「 なんだ、よい漬物があるではないか。 これをもらっておくぞ。
   >  なんか、文句あるのかお前、白丁だろう!」
   > と脅かすのです。
   > すると白丁は
   > 「 いいえ、文句はありません 」
   > と怯えて答えるのです。
   > 朝鮮人が怠け者になったのは、作っても、作っても、両班に全て搾取されてしまうからなのです。
   > お米を貯めておくと、両班が全て持っていくのです。
   > 薪をつくって貯めておくと、「これ、もらっていくぞ!」 と言って持っていってしまうのです。
   > 朝鮮とはそのような文化なのです。 この世で最も野蛮国です。
   >
   《後略》

 こんな国を普通に秩序ある社会に造り替えなければならないのです。

 今現在の日本の様に、街角に交番が有って、そこにお巡りさんが立っているだけで治安が守られる ような社会ではなかったのです。

 ですから、

   民衆を「騒擾予備軍」と見なし、日常生活から予防的に厳格に取り締まる発想

 を憎むのではなく

   民衆を「騒擾予備軍」と見なし、
   日常生活から予防的に厳格に取り締まらなければならない状態

 を恥じるべきです。



 三・一独立運動を通じて、検挙者に適用する法令が不備であったため、従来の保安法よりも
 適用範囲を広く取り、1919年4月15日に「政治ニ関スル犯罪処罰ノ件」(制令第7号)を発しました。
 保安法と異なる部分は
 「 政治の変革を目的として多数共同し安寧秩序を妨害し又は妨害せしむとしたる者 」(第1条)
 とし、単に 「多数共同」 の者、予備陰謀も処罰するとしている点、
 在外朝鮮人にもそれを適用できるとした点です。
 警察官の数、警察費、警察官署数も約3倍に増強され、銃器の大量配備や軍隊式訓練を
 強化し、戸口調査を通じた人民監視を強めるなど、「治安戦」への対応はかえって普通警察制度を
 中心に整備されていきました。
 朝鮮人の多くが、斉藤實総督は文化政治をやると言っているが、
 相変わらず武断政治を行なっていると感じたのは、決して根拠のないものではありません。

 「文化政治」当初、言論・出版・集会・結社の取締りはいくぶん緩和され、
 朝鮮語新聞・雑誌の発行、団体の結成などが行われました。
 しかし、新聞・雑誌には検閲が厳しく、集会も厳しく臨席監視され、
 演説内容で逮捕されることも日常茶飯事でした。
 さらに、1925年5月には日本・朝鮮同時に治安維持法が施行され、同法適用の第一号は
 第一次朝鮮共産党検挙でした。
 1920年代後半は6・10万歳運動、元山ゼネスト、光州学生運動など、民族運動、社会主義運動が
 活発になりますがこれらも厳しく弾圧され、1930年代になると社会主義運動・民族運動に対する
 弾圧体制をさらに強化していきます。
 1936年12月には朝鮮思想犯保護観察令を交付し、
 治安維持法違反者で執行猶予、起訴猶予となった者、出獄した者を「保護観察」処分にして、
 思想転向の促進を図っていきました。
 1930年代以降においては、警察の社会指導体制はさらに強化され、
 一般行政との相互補完関係を深化させるとともに、1930年代末には経済警察を設置して、
 民衆の経済生活への接近・統制を強めていくことになります。

 中朝の国境付近では、一貫して武力による民族運動の弾圧、
 すなわち「治安戦」が持続されていきます。
 三・一独立運動後、憲兵の役割は、「在間不逞者の掃討」、
 すなわち間島での独立軍をはじめとする朝鮮人の民族運動への苛烈な弾圧に
 再び集約されていきます。
 その職務は、「 国境憲兵は平地帯の憲兵と異なり、不逞鮮人の警戒で戦時勤務と同様である 」 と
 認識されていました(恵山鎮小林生「国境憲兵と不逞鮮人」『軍事警察雑誌』第15巻第4号、
 1921年4月)。
 この後、「治安戦」は、対象の重点を東北抗日連軍の活動する満州へと移し、
 繰り返されていくことになります。
 こうした警察・憲兵・軍隊による朝鮮人の取締りは、
 その後、1945年8月15日まで基本的に持続していくことになります。
 それでも、植民地の日常生活には、こうした「治安戦」や厳格な治安維持から
 自由な、近代化された「日常」があったということばかりを強調することは、
 こうした植民地支配の基本的な部分を矮小化することになります。

 

 まぁ、私も学生時代は耳朶まで真っ赤々な左翼思想主義者(“サヨク”じゃないぞ ) だったから、学生 時代に赤狩りの史料等を読んだ時は、それなりに憤りもしたんだが、それでも資本主義経済ににとって 共産思想は癌以上にヤバい存在なんだ。

   共産主義と自由主義
   http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7355/myclaims/anticommunism.html
   > (1) 共産主義とは何か。
   >
   >    共産主義とは、貧富の格差もなく、みんなが平等に暮らせる制度であるというデマが
   >    まかり通っているが、それは誤りである。
   >    サヨクは言う。
   >    「 いわゆる共産主義諸国は崩壊したが、共産主義そのものの考え方は間違っていない。
   >     その実現方法が誤ったからである 」
   >    と。
   >    たとえば、日本共産党は言っている。
   >    「 ソ連は、真の共産主義ではなく、人民や周辺諸国を弾圧する覇権主義であった 」
   >    などなど・・・・・。
   >    しかし、それでは共産主義の本質を突いていない。
   >
   >    ここで、サヨクのほとんどが未だに幻想を抱いている共産主義について
   >    統治制度の観点から述べてみたい。
   >    共産主義諸国のほとんどが瓦解した現在になっても、サヨク勢力が社会で
   >    多大な影響力(害悪!!)を及している日本では、議論の実益があると考える。
   >
   >
   > (2) そもそも望ましい統治制度とは何だろうか。
   >
   >    統治制度は、国内の法主体相互の利害を調整し、国家の国力を増進させ、
   >    国民の福祉を向上させるためにある。
   >
   >    誰でも知っているように、権力分立というシステムがある。
   >    これは、法律上は自由主義の考え方によって根拠づけられる。
   >    要するに、権力を集中させず、分散させ、相互に均衡・抑制を図るシステムである。
   >    主として、議会、行政、裁判所、及び地方自治体が相互に均衡・抑制しあう。
   >
   >    権力分立という統治制度は、権力が一カ所に集中されると、必ずそれは国民にむかって
   >    牙をむくという、歴史上の経験に根ざしている。
   >    言い換えれば、人間つまり統治者は信頼できないということだ。
   >    「 権力は腐敗する。 絶対的な権力は、絶対的に腐敗する 」
   >    という法諺が、このことを端的にあらわしている。
   >
   >    これに対して、共産主義とは、人間の良心のみに依存した制度である。
   >    つまり、労働者と人民の代表は、常に多数者たる労働者たちの利益を考え、
   >    自己の利益を追求しないことを前提にした制度である。
   >    労働者と人民に反抗する者は全てブルジョアジーとして排除されるから、
   >    必然的に権力は一カ所、つまり党に独占されることを意味している。
   >    労働者人民のみが正しいという絶対的真理が存在することを前提としているから、
   >    そこに言論の自由はあり得ない。
   >    言論の自由は、絶対的真理を想定せず、誰もが誤りを犯すことを前提にしているから
   >    である。
   >
   >    ソ連をはじめ、中国、北朝鮮など、共産主義諸国では全て言論の自由は存在しなかった。
   >    それは、共産主義では必然だからである。
   >    日本共産党は、言論の自由を認めるなどと言っているが、それはまやかしに過ぎない。
   >    共産主義を信じる限り、どのような政体であっても、言論の自由は弾圧されるのである。
   >    サヨクは言う。
   >    「 資本主義が高度に発達した日本でこそ、真の共産主義が実現される。
   >     そこでは弾圧など無くみんなが幸せに暮らせるのだ 」
   >    と。
   >    しかし、レーニンや毛沢東を含め、今まで誰も弾圧のない共産主義など達成できなかった
   >    のに、日本人のみ達成できると考えるのは、裏返しの日本優越論である。
   >    何の根拠もない、ただのデマだ。
   >
   >    共産主義と似た制度は、独裁制である。
   >    なぜなら、共産主義諸国は、大なり小なり全て個人崇拝を招いたからだ。
   >    独裁制は、秦の始皇帝など、一人の君主が全ての権限を握る制度である。
   >    言い換えれば、独裁制のもとでは、賢い統治者であれば良い政治が行われるが、
   >    暴君が出ると恐怖政治になるのである。
   >
   >    しかし、統治者の質によって、政治が良くなったり悪くなったりする統治制度は、
   >    本質的に悪い統治制度である。
   >    どんな統治者であろうとも、一定の質が保障された政治がなされる統治制度でなければ、
   >    国力は結果的に衰退するからだ。
   >
   >    「 聖人君子が権力の座につけば極楽になるが、悪人が権力をとれば地獄になるという
   >     政治システムがあるとすれば(実際、独裁制ならそうなるのだが)、それは
   >     政治システムとして悪いシステムである。
   >     よい政治システムは、その運営者の人格と離れて、政治悪が生じないように
   >     制度的に保証されたシステムでなければならない。
   >     これは、人類が数千年にわたる政治史の中で学んだ、政治に関するもっとも基本的な
   >     格率ではなかったろうか。」
   >    ( 立花隆 「日本共産党の研究」より )
   >
   >    共産主義は、民主集中制を党原則にする。
   >    これは、上部の決定に対して下部は反抗してはならず、従わなければならないという
   >    原則である。
   >    反論は分派活動あるいは人民に対する反逆とみなされ、除名や粛清の対象となる。
   >    つまり、共産主義は独裁または党中央による少数政治を必然的に招く。
   >    そんな制度が良い統治制度であるはずがない。
   >    ある期間、それがうまくいったとしても、長期的には官僚機構、党組織に連なる
   >    人間のみが富と権力を得るから、政治は必然的に腐敗する。
   >
   >
   > (3) 共産主義は、悪い、というより極悪な統治制度であるということは、人間の捉え方とも
   >    関係があると思う。
   >
   >    共産主義は、人間の良心を信じることを前提にしている。
   >    つまり、人間は白色だということだ。善なる面のみである。
   >    幼少期の教育において、やりたいようにさせていれば、必ず子供のころの良い面が
   >    育って、いい大人になり、いい社会が訪れる。
   >
   >    しかし、常識のある人なら誰でも、そんなことは幻想にすぎないことがわかるだろう。
   >
   >    権力分立というシステムは、人間の良心を徹底的に疑うことを前提にしている。
   >    つまり、人間は灰色であるということだ。 善なる面もあれば、悪なる面もある。
   >    ある時は、白くなるし、またあるときは黒くなる。
   >    人の死に涙することもあれば、暴力的な戦争に興奮したりもする。
   >    それが全て人間なのである。
   >    したがって、人間の暴力的な面、自己中心的な面を認識し、
   >    それをコントロールしなければならない。
   >    決して、人間には善なる面しかなく、それを伸ばしさえすればいい社会が訪れるという
   >    単純なものではない。
   >
   >
   > (4) 現代日本で共産主義が実現されたらどうなるか。
   >
   >    日本共産党が政権をとった場合、日本という国家を支えてきた伝統・文化が破壊され、
   >    日本は全く別の国になる。 皇室は廃止。 日の丸君が代も廃止。
   >    自衛隊は人民軍と名を変え、国民弾圧の道具になる。
   >    期間がどれほどかかろうと必ずそうなる。
   >    そして、日本国民統合の支えである皇室、文化、伝統がなくなる代わりに、
   >    共産主義を導いた個人への崇拝が教育されるだろう。
   >
   >    これを単なる冗談だと受け取るか、あるいは十分にあり得ることだと感じるかは
   >    各人の自由である。
   >
   >    しかし、サヨクが戦後五〇年かけてやってきたことがじわじわと効果を現している今、
   >    サヨクに対する嫌悪感がじわじわと無くなりかけている今、共産主義が亡霊のように
   >    日本に出現することを危惧せずにはいられない。
   >
   >    特に、法曹は、サヨクの先兵となっている。
   >    このまま法曹界がサヨクに埋め尽くされるならば、共産主義の出現も間近である。

 つでに、日本政治システムの二大サヨク政党、日本共産党と旧社会党 ( 現民主党および社民党 )  について書かれたwebサイトも紹介しておきますね。

   2013年08月08日 日本のために
   共産党、そして左翼が危険な理由。社会主義との違いは?
   http://fornihon.blog.fc2.com/blog-entry-160.html
   > 都議選そして参議院選とやや共産党が議席を増やし支持が増えているように思えます。
   > しかし一方で投票率が低いので、共産党はほぼ必ず投票に向かうであろう組織票が固いので、
   > 議席増に繋がっただけとの見方もあります。
   > そして似て非なる政党の社民党(旧社会党)は、更なる退潮傾向に歯止めは
   > かけられていませんでした。 ここ20年ほどの共産党もそうでした。
   >
   > そもそも共産主義と社会主義そして極左グループ、何がどのように違うのでしょうか?
   > 日本共産党と社民党(旧社会党)とはどのような違いがあるのでしょうか?
   > 共産主義そして左翼勢力が、何故警察の暴力革命の方針を堅持している監視対象として
   > あげられ、どうしていまだに公安調査庁の破壊活動防止法の対象団体として
   > 指定されているのでしょうか。
   > 何故共産主義は危険な思想として言われているのでしょうか?
   > 明確に認識することが、これからの日本の進むべき正しい選択の答えとなるのでは
   > ないでしょうか。
   >
   > 日本共産党という党の歴史を全く知らずに一見響きの良さや甘い言葉に釣られて
   > 共産党の活動を支持したり、活動に参加されてる方々がいます。
   > 共産党の歴史すら知らず、全く無知な状態では非常に危険だと思います。
   > 日本共産党の歴史を調べ、知ってから再度その活動に賛同できるか考えていただきたいと
   > 思います。
   >
   > 共産党に平和を語られても、とても素直にああそうですかとはどうしても思えません。
   > これまでの共産党の歴史を隠すが為に異常に平和、人権、権利を叫び続けなければ
   > ならないのだとしか理解できません。
   > やはり隠し事があるからこそ必要以上に耳障りの良い言葉を挙げ続けているのだとしか
   > 思えません。
   >
   > 公安当局が把握している共産党員は日本全国で約31万人です。
   > 共産党は衆議院の格選挙区全てに候補者を立て、その投票数を詳しく分析することにより
   > 支持層や支持の状況、潜在する共産主義者等を把握してきています。
   > まず当選は難しいと思われても各選挙区に立候補者を擁立する理由です。
   > つまりその裏には共産主義革命の賛同者の動静を把握する為と言うことに他ならないのです。
   >
   > 戦前からの代表的な左翼組織の一つが日本共産党です。
   > 日本共産党(存在としては非合法組織)は戦前の時、戦争に反対したので信頼できると
   > 評価して信じる人がいますが、これは大変な誤解です。
   > そして現在の志位委員長も同様に「戦争に反対したのは共産党だけなんです」と発言しますが
   > それは嘘です。 当時の共産党は、革命の原動力としての戦争については肯定しています。
   >
   > 日本の軍事力弱体化と、それによるソ連コミンテルンによる資本主義支配からの解放の為に、
   > すなわちソ連からの日本への侵略を円滑にするために、日本の開戦に反対していたという
   > だけのことなのです。
   > この大東亜戦争以前の時代の共産党は、共産主義国による資本主義国に対する戦争は、
   > 党規及び実質の両面において肯定していたのです。
   > 一般的戦争の全てを否定していたというわけでは決してありません。
   > ソビエト連邦の崩壊に対する日本共産党の言い訳は、スターリンのソ連型社会主義が
   > 失敗したのであって、日本共産党は正しいという主張をしています。
   > しかしスターリンのソビエト共産党も日本共産党もマルクス・レーニン主義を党綱領として
   > 掲げていたのですから、言い訳としても大きな矛盾があります。
   >
   > ソビエト連邦が崩壊し東欧の国々が次々と民主化され、一方で中共・北朝鮮の現実を見れば、
   > やはり共産主義・社会主義は理想論に過ぎなかったことが証明されたのだから、いまさら
   > 日本共産党ではないだろう、社民党と共に衰退していくだろうと思われがちです。
   > ところが日本共産党及び下部組織は、実を言うと勢力を増やし続けているのです。
   >
   > 衆参の国会議員数では多くありませんが、全国では既に72の自治体で与党となり、
   > 27の自治体では単独与党となっています。
   > 共産主義には賛同しないが、戦争反対やTPP参加反対、増税反対等については賛成できる、
   > そのように思ったときには日本共産党の策略にはまったと言えます。
   > 個々の主張で見ればもっともらしく聞こえますが、日本国民の精神性の破壊や能力の低下が
   > 目的としか思えません。
   >
   > 「ジェンダーフリー」「過度の男女平等」「日の丸・君が代・天皇の否定」「人権擁護」
   > 「在日の参政権」「個人主義」「ゆとり教育」「男女別姓」等がそうだと思います。
   > 戦後からの反政府運動に明け暮れ、一般企業からの思想調査により職にあぶれた
   > 共産主義者が就いたのが教師や自治体の仕事です。
   > 自分たちの理想を後の世代に託します。
   > 自国の軍隊は否定しても、他国の軍隊は正しいと言い、革命が成立した時に
   > その夢が叶うと信じているのです。
   >
   > 昭和26年10月の第5回日本共産党全国協議会において、
   > 「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのは間違いである」
   > とする「51年綱領」と、
   > 「我々は、武装の準備と行動を開始しなければならない」 とする「軍事方針」を決定しました。
   >
   > この方針に基づいて昭和の20年代後半に、全国的に騒擾事件や警察に対する襲撃事件等の
   > 暴力的破壊活動を繰り広げました。
   > 一連の武装闘争は全く国民の支持を得ることは出来ずに、27年10月の衆院選では、
   > 共産党候補は全員落選しました。
   > 日本共産党は、当時の暴力的破壊活動は
   > 「 分裂した一方が行ったことで、党としての活動ではない 」
   > と主張しています。
   > しかし、同党が20年代後半に暴力的破壊活動を行ったことは歴史的事実であり、
   > 「白鳥警部射殺事件」(27年1月)、「大須騒擾事件」(27年7月)の判決でも認定されています。
   >
   > 戦後の共産党が起こした事件は数多くあります。
   > 血のメーデー事件・松川事件・白鳥事件・リンチ査問事件等、対警察関連事件や暴動事件、
   > 党員関係事件、とても書ききれないので各自調べてみてください。
   > 全ては国家権力に暴力を持って対抗し、暴力によって革命を意図していたということです。
   > その目的は国家転覆を図り、暴力をもってしても共産革命を成功させ、
   > 共産主義国家の創立を目指す、ということでした。
   > そしてその思想は今でも日本共産党そして左翼過激派には息づいているのです。
   >
   >
   > それでは果たして共産主義とはどのような思想に基づくものか、出来るだけわかりやすく
   > 説明したいと思います。
   > 共産主義は、政治や経済分野での思想や理論、運動、体制の一つであり、
   > 財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会を目指します。
   > 19世紀後半にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが共産主義思想を体系化しました。
   > 市民革命により確立した私有財産制を制限し、共有化する財産を限定し、
   > 資本家による搾取のない平等な社会をめざす 「マルクス主義(科学的社会主義)」 が
   > 共産主義思想として定義づけられました。
   > その後十月革命の成功によるソビエト連邦の成立により、ウラジーミル・レーニンによる
   > 革命的な党の組織論などをマルクス主義に総合した「レーニン主義」が影響力を高め
   > 「マルクス・レーニン主義」が生まれ、そしてレフ・トロツキーによるマルクス主義の概念である
   > 「トロツキズム」、毛沢東による当時の中共の状況に適合させたマルクス主義の解釈である
   > 「毛沢東主義」(農民中心のゲリラ戦術などによる革命方式を主張)など、マルクス主義は
   > 革命の起こった国の指導者の考えや国情により多数の思想や理論、運動、体制となり
   > 世界へ広まっていきました。
   >
   > 社会主義は、社会的不平等の根源が私有財産制であることに位置づけ、
   > 私有財産を制限ないし廃止し、生産手段の社会的所有に立脚する社会を作ろうとする
   > 思想または運動といえます。 マルクス主義もその一つということもできます。
   > それでは共産主義と社会主義は一緒なのかと言うことになってしまいます。
   > 時代の変遷、一番大きなことがソ連の崩壊を筆頭とするヨーロッパの民主化により
   > 共産主義と社会主義の明確な色分けがつきにくくなってしまいました。
   >
   > 厳密に言えば両者には違いがありますのでそのあたりからもう少し説明してみます。
   > 社会主義を歴史的にいうと、市民革命により市民が基本的人権など
   > 政治的な自由と平等を獲得したが、資本主義の進展により
   > 少数の資本家と大多数の労働者などという貧富の差が拡大して固定化し、
   > 労働者の生活は困窮し社会不安が拡大したために、労働者階級を含めた
   > 経済的な平等と権利を主張したものとされています。
   > 市民革命と社会主義運動は、啓蒙思想と近代化では共通していますが、
   > 初期の資本主義が経済的には自由放任主義(夜警国家)を主張したのに対し、
   > 社会主義は市場経済の制限や廃止、計画経済、社会保障、福祉国家などを主張しています。
   >
   > 社会主義と言った場合は、ソ連が採用していたソ連型社会主義、そして現在
   > 欧州で広く採用されている社会民主主義のいずれかを指します。
   > 社会民主主義とは、社会連帯を重視し、市場経済を国家によって統制しようという
   > 思想が柱となっている事が大きな特徴で、端的に言えば大きな政府を目指す社会です。
   > ソ連型社会主義とは「共産主義社会」を実現するための第一段階と言えるかも知れません。
   > 共産主義とは国家権力が死滅した世界その後に来るアナキスト
   > つまり無政府主義が究極の目的ともいえます。
   >
   > 共産社会を実現するためには資本主義社会を崩壊させるための戦争に勝利しなければ
   > なりません。
   > 社会主義とはこの戦争つまり世界大革命(その後に共産主義が達成される)を起こすための
   > 一時的社会のことであるともいえます。
   > マルクスは1848年のドイツ革命が失敗した原因を、革命勢力が立法権のみの掌握にとどまり、
   > 軍事権を含む行政権を得られなかったからと考え、共産革命の成功のためには、
   > その過渡期としてプロレタリアートの政治支配の必要性を主張しました。
   > これがプロレタリア独裁で、ロシア革命を指導したレーニンが実践しました。
   > 資本主義とは、経済活動の結果に応じて財を受け取る社会であり、
   > 生産手段は自分自身で持ちます。
   > つまり結果を出せば出しただけ儲かるという主義といえます。
   > 競争原理で生産性を向上させ、結果として社会全体が豊かになるとしています。
   >
   > 社会主義とは、経済活動における労働力なり量に応じて財を受け取る社会であり、
   > 生産手段は社会参加者の共有となります。
   > 資本主義の、
   > 「金も能力もない奴は金持ちの奴隷、死ぬまで貧乏、生まれた瞬間に負け組」
   > という欠陥を克服するために生まれたといえます。
   > 効率よく働き生産性を上げようが、適当に働き結果を残せなくても給料は一緒。
   > 日本には年功序列があり給料が変わるので、唯一成功した社会主義国とも言われます。
   > 共産主義とは、経済活動において必要な時に応じて財を受け取る社会であり、
   > 生産手段は社会主義と同様に社会参加者が共有します。
   > つまり人間の理想郷を作り上げようということで、農業機械も工場も社会参加者全員で使い、
   > 社会参加者全員が飢えず、苦しまず、豊かに生活して、できるだけ多くの給料をもらおうと
   > いうことです。 みんなで頑張れば、みんなが幸せになれるという主義です。
   > ワーキングプアや派遣切りを共産党が支援する理由です。
   >
   > 社会主義、共産主義の欠点は、人間の欲望というもの全く考慮していません。
   > 誰しもが、あの人よりこの人よりもという、人間なら自然と湧き出る感情は
   > 完全に否定してしまっています。
   > 理想主義であるがゆえに、何が何でも達成するぞという独裁者を生みやすく、
   > その独裁者を倒す手段がありません。
   > 独裁者は、理想実現のため選ばれた指導者であるため、社会構成員を虐殺しようが
   > 経済を破綻させようが、いまだ理想実現の途中であると言明し片付けられてしまいます。
   >
   > 共産党や左翼過激派が、様々なセクトに分裂する権力闘争は、
   > たった一人の独裁者にならなければ、後は平等だとされる多くの社会構成員の単なる一員に
   > なってしまうからです。
   > 従って少しでも主張の違いがあれば、それぞれが革命の過程において容認している
   > 暴力を用いても、独裁者を目指し分裂してまでも権力の座に着くことを目指します。
   > これほどまでに分裂してしまうのか、そしてしかもお互いにここまで憎みあうかと言う、
   > 何処がどう違うのかと普通一般人から見ると同じにしか見えないのに、多くのセクトに
   > 分かれていく理由は、左翼共産主義者・社会主義者たちにとっては唯一つの独裁を
   > 目指さなければ革命の意味はなくなると考えているのです。
   >
   >
   > それではどのような分裂により、左翼過激派まで生まれたのかを歴史的に検証してみます。
   >
   > 昭和30年代初頭、路線対立等の理由から、日本共産党を除名されたり離党した者が
   > 中心となって、日本共産党に代わって、我が国で暴力により共産主義革命を起こすことを
   > 目的とする集団が生まれました。 これが後に武力闘争する左翼過激派です。
   > 日本共産党が、それまで採っていた武装闘争を極左冒険主義であったと自己批判し、
   > 昭和30年7月の第6回日本共産党全国協議会(6全協)で戦術転換を図ったことから、
   > 武装闘争の中心となっていた学生党員等の間で指導部への不信感が生まれました。
   > また、時期を同じくして、共産主義者の間で絶対的存在であったスターリンに対する批判が
   > その死後に高まり、ソ連が同じ共産圏のポーランドやハンガリーに対して武力介入を行った
   > ことから、既存のマルクス・レーニン主義に対する懐疑も深まりました。
   >
   > こうした状況の中で、スターリンと対立して暗殺されたトロツキーを再評価する動きが
   > 日本国内で高まりトロツキズムが研究され、それに基づく革命の実現を目指す
   > 元共産党員らが中心となって、昭和32年1月、日本トロツキスト連盟を結成し、
   > 同年12月には革命的共産主義者同盟「革共産同」と改称しました。
   > これが現在の過激派の二大勢力である革マル派と中核派の母体です。
   > 連合赤軍、赤軍派も同様です。
   >
   > 昭和23年9月に日本共産党の指導下に結成された学生組織である
   > 全日本学生自治会総連合「全学連」は、日本共産党の路線変更や、消極的な指導方針に
   > 不信と不満を抱き、昭和33年5月に開催された全学連第11回大会では、
   > 日本共産党指導部に反旗を翻す全学連主流派と、日本共産党指導部に従う反主流派が
   > 激しく対立し、その後、大量の学生党員が除名等の処分を受けました。
   > これを機に、全学連主流派は、完全に日本共産党の指導から離脱し、
   > 同年12月、独自に共産主義者同盟「共産同」を結成するとともに、昭和35年4月には
   > 全学連も共産同系全学連と日本共産党系全学連に分裂しました。
   > これが現在の共産同系各派の母体となっています。
   >
   > この他に、日本共産党が中国共産党との関係を断絶した時期に除名、離党した党員らが
   > 中心になって結成した親中共派や日本共産党の綱領論争の過程で離党した党員らが
   > 結成した構造改革派、社会党の青年組織である社会主義青年同盟「社青同」に入り込んだ
   > トロツキスト集団が後に組織を乗っ取る形で独立した革命的労働者協会「革労協」等が
   > 誕生し、現在の過激派の流れを形成しています。
   > こうした過激派各派は、続く「60年安保闘争」において重要な役割を果たすこととなりました。
   > つまり思想的には共産主義が基本であり、共産主義革命を目指していると言うことでは、
   > 共産党も左翼過激派も同じでありその目的の為には暴力も辞さないと言う共通点もあります。
   >
   > 社会主義と共産主義は、社会的な思想・運動としては一部は重複しており、
   > 一部が異なっているといえます。 共産主義とはcommunismの訳語です。
   > これは私有財産制を全面的に廃止し、生産手段を社会の共有にすることによって
   > 経済的平等を図り、人間社会の諸悪を根絶しようと説く思想または運動といえると思います。
   > コミューンとは、産業化の中で解体した共同体の共同性と、市民社会で発達した個人性を
   > 併せ持つような、自由と平等が共に実現された理想の共同社会といったイメージに
   > なるのではないかと思います。
   >
   > 社会民主党つまり旧日本社会党は、西欧的な意味での社会主義政党だったと思います。
   > 日本共産党はソ連に本拠を置くコミンテルンの日本支部として創設されています。
   > その理論はロシア経由の後進国革命の理論であり、旧社会党は先進国革命の理論としての
   > マルクス主義の側面を代表していると思います。
   >
   > 旧社会党には、1960〜70年代には党内の有力勢力に、労農派マルクス主義と
   > 構造改革論がありました。 前者は共産党から離れた山川均の系統です。
   > 日本共産党の二段階革命論(上述の一旦は社会主義をとる)に対し、
   > 一段階革命論を説きました。
   > 先進国の党派の中では最左派に位置し、議会主義でありながらもかなり行動的でした。
   > 後者は、イタリア共産党から輸入されたもので、武装蜂起・内乱型でなく、
   > 議会制民主主義に基づき、構造改革の積み重ねによって社会主義革命を実現しようとする
   > グラムシ系の理論です。
   > 旧民主社会党は社会党の右派が、より穏健な議会政党となったもので、
   > 欧州の「社会民主主義」政党に近いものでした。
   > 旧社会党・民社党は共産主義には反対し、日本共産党とは一線を画していました。
   > その違いは、暴力革命・一党独裁への警戒です。
   > 旧社会党・民社党は、革命を目指しますが暴力は否定し、独裁も認めていません。
   > これは共産党との大きな違いと言えます。
   >
   > 日本共産党は、マルクス=レーン主義の共産主義政党ですが、これをごまかす為に
   > 昭和40年代頃から盛んに科学的社会主義という用語を多用しています。
   > 党の綱領でも、マルクス・レーニン主義から科学的社会主義と変えていますが、
   > この理由はマルクス・レーニン主義の暴力革命・一党独裁を単に隠すためであり、
   > 二段階革命論、統一戦線戦術といった現綱領の基本路線にも変更はなく
   > その本質は何も変わっていないのです。
   >
   > マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を著した1847年には、
   > 社会主義と共産主義の違いは明瞭なものだったと思います。
   > エンゲルスは、社会主義はブルジョアの運動を意味し、
   > 共産主義は労働者の運動を意味したと説明しており、
   > マルクスもエンゲルスも共産主義者と自認していました。
   >
   > 社会民主主義は議会制民主主義の尊重や漸進的改革の主張を意味し、
   > 共産主義は革命によるプロレタリアート独裁の主張を意味しました。
   > レーニンは1917年に出版された「国家と革命」でマルクスの「ゴータ綱領批判」を詳しく解説し、
   > 理論面でもマルクスの共産主義論を復権させています。
   > 以後、革命後の体制はプロレタリアート独裁期を経て社会主義へと移行し、
   > さらに共産主義へと発展する、という考え方が定着しました。
   > マルクスの言う共産主義の低い段階が、社会主義と位置付けられたともいえます。
   >
   > 資本主義社会をブルジョワジー(資本家階級)とプロレタリアート(労働者階級)の階級対立に
   > よって特徴づけ、ブルジョワ的所有を廃止するためのプロレタリアートによる権力奪取を
   > 共産主義者の当面の目標としたのです。
   > この革命によって階級対立は解消し、国家権力の止揚へと向かうことが可能となりました。
   > そして最終目的である、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような
   > 協同社会(共産主義社会)を形成する条件が生まれるとしたのです。
   >
   >
   > 共産主義そして社会主義の違いが、これまでの説明でぼんやりとは理解できたとは思います が、
   > 日本共産党と旧社会党・社民党との違いから見てみたいと思います。
   >
   > 日本共産党は1922年創立で、
   > 天皇制廃止 (制度ではないし、共産主義による共和国の反意語として使用された造語)、
   > 日本共和国設立、資本主義否定、護憲の立場を取っています。
   > 日本社会党は、毛沢東が日本社会党は不思議な党であると言及していましたが、
   > 戦後、労働農民党、日本労農党、社会大衆党が一緒になり日本社会党と名を変えて、
   > 天皇制容認、護憲で主に労働組合活動や男女共同参画活動をしていました。
   >
   > 1952年に吉田首相(親米)の暗殺計画
   > 「 吉田首相亡き後に鳩山一郎(ルーピーの祖父)を首相にする目的 」
   > では、日本社会党による何等かの関与が伺えました。
   > そしてこの計画には失敗しましたが、後に社会党と鳩山一郎(民主党)は共闘を組み、
   > 吉田内閣不信任案を出し、鳩山一郎を首相として選出しています。
   > そして、鳩山首相(親ソ)は1965年に「日ソ国交回復」に調印したのです。
   > 孫のポッポルーピーの原点が見れたと思います。
   >
   > 日本社会党は、1970年代には中共共産党と親密な関係になります。
   > 田英夫は中共船による日本海領域や尖閣諸島の不法侵犯を擁護する立場を取りました。
   > 1985年、田辺誠委員長は中共に南京大虐殺記念館を設立するように進言して、
   > 3000万円を中共共産党に寄付までして建設させたのです。
   > そして同じ年に日本国首相の靖国参拝を批判して中共に火をつけたのが、
   > 朝日新聞と社会党ということなのです。
   >
   > 朝鮮総連はもともと日本共産党の力添えで設立されたものです。
   > 1955年以前は朝鮮人共産党員が多数いました。
   > 吉田内閣打倒の方針で1952年のメーデーのデモは、共産党、社会党、朝鮮人が
   > 多数参加しており、上述した戦後の日本共産党の事件にも朝鮮人が多く関わっていたのです。
   > しかし1955年には朝鮮総連が民族派主導により北のチュチェ思想に変わり、
   > 日本共産党は反発を示して総連から距離をおくようになり、代わって社会党が
   > 北朝鮮労働党と友好関係を結び、朝鮮総連と親密な関係になり、現在の親半島と言う
   > 社民党・民主党に至っているのです。
   >
   > 日本共産党と社会党の一番の違いは、プロレタリア独裁を認めるのが共産主義であり、
   > 認めないのが社会民主主義といえます。
   > つまりいいかえるとレーニンの行ったソビエト革命の路線を肯定するか、しないかの違い
   > でもあるのです。
   >
   > 広島の原水禁が分裂した原因はソ連の核兵器を許容する共産党と、
   > 許容しない社民党(社会党)の違いでした。
   > 確か前の秋葉広島市長は社民党だったと思いますが、北朝鮮の核保有には許容的な発言を
   > していました。
   > アジア外交に関しては、社民党は土井前党首の出した
   > 「東アジア非核共同体」構想(東北アジア地域から非核化する。
   > 米軍基地の核撤去が含まれる)というのがあります。
   >
   > 日本共産党は、日本外交の転換策としてアメリカ外交偏重を改め、
   > アジア外交を外交の中心にすえる、大国に追従しない自主・独立の外交を築く、
   > 侵略戦争と植民地支配への反省をアジア外交の前提にするとホームページで主張しています。
   > 両党は、現在のアメリカ中心の外交を転換し、アジアとの外交を重視するという点では
   > 一致してますが、その先の具体的なアジア外交ビジョンがあるか無いかに違いがあります。
   >
   > 自衛隊については、社民党は村山首相の見解に従えば合憲と認め、
   > 共産党は違憲だか存在は認めるつまり当面は利用する、という立場をとっています。
   > 両党とも国旗国歌には興味なしというか否定している立場といえます。
   > 日本共産党は共和制改憲が党是なので、日本人民共和国憲法の制定を目指していますが、
   > 社民党は党としては天皇制を認めていますが、辞任したばかりの福島議員は
   > 天皇制廃止改憲論を主張しています。
   >
   > この論説の最大のテーマと言うことになる危険性ということで述べると、
   > 共産党そして同じ共産主義を基本とする左翼過激は、革命の為には暴力を否定せず、
   > 社民党は暴力を否定し民主的手段において革命を成し遂げる、という大きな違いがあります。
   >
   > 共産党が主張する「敵の出方論」とは、平和革命になるかどうかは敵の出方によるということ
   > であり、敵が平和的手段で無い限り暴力は行使すると言う見地を持っています。
   > 従って警察や公安調査庁は、共産党がいまだに武装闘争の危険性を残していると判断し、
   > 対象として監視をしているのです。
   >
   > 日本共産党は、戦後の暴力闘争が国民の支持を得られないと、それを隠すために
   > 党の綱領を科学的社会主義と、なんだかわけもわからないものに偽装し、
   > 一般国民には「微笑み戦術」としてソフトムードで、一見味方をするような耳障りのよい
   > 主張をして取り込んで行こうとしているのです。
   >
   > そして警察に対しては「対警工作」というマニュアルを作成し、
   > 共産党革命の際には応援してもらう、応援まではしなくても見てみぬふりをして
   > 協力してもらう、等の目的の為それこそハニトラまでも用意して、警察に工作を
   > 仕掛けてきています。
   >
   > 共産党と左翼過激派は、共産主義思想による暴力革命により、国家を解体し、
   > 日本を転覆させようと目論んでいる団体なのです。
   > 国民一人一人がしっかりと認識し、先人が命をかけて守ってきた2673年続く日本を
   > 同様に後世にも引き継いでいかなくてはなりません。

 ↑これを読めば、未開の土人に教育を施し、インフラを整えて、先進国日本の新領土に相応しい資 本主義に基づいた経済特区として興そうとした場合に、共産主義という資本主義社会にとっての最強 の癌を排除するべく注力するのは、極めてアタリマエの話だと理解できます。

 サヨクにとって、赤化を防がれた怨み骨髄に徹するのは ( 元アカとしてw ) 理解できます。

 しかし、そうしなければ、せっかく併合して大金を費やした朝鮮半島に革命が起こってしまいかねませ ん。

 日本が資本主義国家である以上、共産主義者の弾圧は至極アタリマエの選択肢であり、むしろ、共 産主義者が自由を謳歌できる今現在の日本が異常なのです。
 弾圧されたくなかったら、資本主義によって発展した社会で赤化活動をするのは止めなさい。